日本の「宗教的空白」の濃度

私も一応、南北朝時代くらいまで遡って日本の「宗教的空白」を考えてみたのですが、戦国時代までは時期と地方によって、その「宗教的空白」の濃度は相当に変動していますね。
時代が下るにつれて宗教感情が希薄になる、「宗教的空白」の濃度が増すということでは全くなくて、逆転はいくらでもあったし、地方によっても様相は様々だったようです。
しかし、近世の長い平和の中で、大きな方向としては時間の経過とともに、そして日本全体においてある程度均質的に「宗教的空白」の濃度が増して行き、幕末維新期から明治にかけて、その濃度が一度極大化したように感じます。
そうした状況を理解するには、渡辺京二『逝きし世の面影 日本近代素描Ⅰ』(葦書房、1998)に紹介されていた外国人の観察記録、特にギリシア正教の宣教師ニコライの詳細な日記が役に立ちますね。

渡辺京二『逝きし世の面影』の若干の問題点(その12)
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/ea34f26b6dc10670eb6411ff825e9ec5
中村健之介『宣教師ニコライと明治日本』(その18)
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/eb8c5cb5f725ff9346aff0164fdbbd83

ただ、既に三年前に、個人的には過去の探求はもう充分やったように感じていました。
過去の分析はそれなりに充分にやったので、これから先の投稿は将来に向かっての具体的提案を目指す、などと書いたのですが、「宗教的空白」とは無関係の過去の探求にかまけて、具体的提案はずいぶん遅くなってしまいました。

「宗教的空白」の過去と未来
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/a08ab0d5924daea7e3dbdae6f360d390

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