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”阿波邪馬台国説”を裏付ける材料となる考古学論文の紹介「集落遺跡からみた古墳時代前期社会の研究 -近畿における広域流通の視点から-」 


阿波・讃岐⇒中河内⇒旧大和川⇒纏向への進出仮説
難波津と難波宮(「千年都市大阪」より) 大阪市ホームページより
阿波・讃岐から大和への仮説


阿波説(阿讃共立説)を説明する材料として、こんなに適した論文があったのか! 

阿波・讃岐から奈良大和への進出は、庄内式から布留式土器への変化の頃(卑弥呼の次の男王の時代)に急速に進んだのではないかと考えています。それを示す根拠になりそうな論文が見つかったので紹介します。

阿波・讃岐から準構造船で河内湖に渡り、旧大和川下流域の水田を開拓し、奈良盆地へ進出した様子がイメージできます。(そうは書いてませんけど)

これに、阿波・淡路での鉄器生産、朱生産、銅鐸生産、小型丸底鉢の祭祀、西長峰遺跡の独立棟柱祭祀建物、などなど補強すれば、阿波説(阿讃共立説)を説明できそうです。

四国にある初期の祭祀施設候補

関西大学学術リポジトリですぐ読めます。
下記に、一部のみ抜粋して紹介しておきます。
ぜひ、リンクを貼った論文の中身をじっくり読んで欲しい。


集落遺跡からみた古墳時代前期社会の研究 
-近畿における広域流通の視点から-
 
山田隆一 2019年

図4 讃岐・阿波系土器が出土した遺跡分布

目次
1 はじめに 9・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・ 9
2 調査状況と大型掘立柱建物 9
3 雁屋遺跡の変遷と大型掘立柱建物の位置 14
4 まとめ18
第2節 近畿の大型建物の変遷とその性格について ・・・・・・・・・・・・・・・・ 21
1 はじめに 21
2 近畿の状況 21
3 まとめ 25
第2章 古墳時代前期の広域流通と拠点
第1節 古墳時代初頭前後の中河内地域 ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・ 29
1 はじめに 29
2 中河内地域の状況について 31
3 周辺地域状況について 43
4 中河内地域の動向 47
5 まとめ 49
第2節 淀川流域の古墳時代初頭期集落について ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・ 56
1 はじめに 56
2 東部摂津地域の状況 56
3 北河内地域の状況 67
4 淀川流域の状況について 70
5 まとめ 72
第3節 南河内、石川流域における弥生時代後期から古墳時代初頭社会の特質 ・・・79
1 はじめに 79
2 旧大和川と石川 79
3 石川流域に立地する諸遺跡の動向 80
4 石川流域出土の他地域系土器 84
5 まとめ 88
第4節 東海地域における古墳時代初頭期の集落 ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・ 92
1 はじめに 92
2 大阪における集落遺跡の変遷と概要 92
3 東海地域の集落遺跡 93
4 東海地域の物流ルート 96
5 まとめ 98
第3章 他地域系土器とその社会背景
第1節 大阪出土の讃岐・阿波・播磨系土器と製塩土器 ・・・・・・・・・・・・・ 101
1 はじめに 101
2 各地の土器編年の状況 101
3 大阪府の阿波・讃岐・播磨系土器 104
4 出土遺構と遺物 107
5 大阪府の消費地における製塩土器 109
6 まとめ 111
第2節 大阪府下出土の北部九州系土器 ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・ 129
1 はじめに 129
2 大阪府出土の北部九州系土器 129
3 近畿の北部九州系土器 132
4 まとめ 134
第3節 大阪府下出土の東海・東国系土器 ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・ 136
1 はじめに 136
2 大阪府下出土の東海系土器のありかた 136
3 東国系の状況 138
4 まとめ 139
第4章 塩の生産と流通拠点
第1節 中河内における古墳時代前期の製塩土器 ・・・・・・・・・・・・・・・・・・ 151
1 はじめに 151
2 製塩土器製作技法の二者 152
3 大阪府内陸部出土の製塩土器 154
4 周辺地域の搬入された製塩土器 161
5 まとめ 168
第2節 西三河の土器製塩と交流拠点 ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・ 179
1 はじめに 179
2 大阪湾沿岸の土器製塩と集落遺跡 179
3 西三河の土器製塩と拠点集落 186
4 まとめ 193
第5章 鉄器と鉄器生産
第1節 近畿弥生社会における鉄器化の実態について ・・・・・・・・・・・・・・・ 199
1 はじめに 199
2 近畿地方の鉄器化の状況 200
3 鉄製品の概略 211
4 まとめ 218
第2節 甲田南遺跡出土の鉄斧について ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・ 227
1 はじめに 227
2 甲田南遺跡出土の板状鉄斧 227
3 まとめ 228
第3節 大阪湾沿岸地域における鉄器化について ・・・・・・・・・・・・・・・・・・ 231
1 はじめに 231
2 大阪湾沿岸地域の鉄器化 232
3 まとめ 234
第6章 土木技術の伝来と展開
第1節 中河内地域における古墳時代の敷葉工法 ・・・・・・・・・・・・・・・・・・ 245
1 はじめに 245
2 古墳時代前期の敷葉工法 246
3 古墳時代中・後期の敷葉工法 250
4 まとめ 255
第2節 大阪の水制 ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・ 258
1 はじめに 258
2 水制研究の概要 258
3 大和川の水制 260
4 大阪の水制遺構 263
5 水制遺構の概要 275
6 まとめ 279
終章 ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・ 287
1 広域流通網における拠点集落と他地域系土器 287
2 塩と塩生産の掌握 292
3 流通拠点と古墳 294
収録論文初出一覧 ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・ 303

著者は大阪府で30年以上、遺跡の実地調査を見てこられたものと思われます。大阪府立狭山池博物館にいらっしゃるかもしれません?

基礎資料となるのが、既往の調査による膨大な数量の遺構・遺物とその調査報告書などであるが、未報告資料も多い。未報告資料の多くを実見しており集落遺跡個々の大枠の変更はないと考えるが、この点は集落遺跡の大きな
問題点で、絶えず修正を加えつつ研究を進めていく必要がある。

また人の移住を示す稀有な事例もある。大阪で複数確認された阿波系土器を使用した土器棺は、彼地と同様に口縁部を東に向ける。また阿波特有の竪穴住居の形態から、阿波型土器の出土する事例もある。
これらは、習俗や習慣も同時に持ち込まれていたことを示している。

旧大和川流域の中河内は、山陰地域と吉備、讃岐、阿波の瀬戸内中部諸地域との関係が強く、日常的な交流関係が想定できる。・・・
そのような流通網において、中河内にみられる大変広い範囲への集落の集中は、近畿の他の流通拠点を凌駕するあり方である。広域流通網の結節点に、首長層を含む多くの集団が集住するあり方は、大和盆地東南部の巨大さとも共通するあり方であり、近畿において中河内がより重要な位置を占めていたことを示している。


中河内の遺跡の変遷


旧大和川沿い、および瀬戸内海からに河内湖に通じる狭小地域にほぼ時を同じくして他地域系土器を多量に出土する集落遺跡が出現する。それら集落は流通拠点であり、広域流通ルートが成立した事を示している。大規模である点を重視すれば、中田遺跡群、加美・久宝寺遺跡群を二つを核として進行しているのであって、その時期は庄内期初頭から布留期前半である。さらに重視せねばならないのは、旧大和川という同じ水系に立地する大和盆地東南部の纒向遺跡の動向である。纒向遺跡でも庄内期初頭に突如として出現し、布留期でも初頭の内に衰退するとされている。やはり他地域系土器についても、庄内新相以降に急激に増加する。つまり大和と中河内という二つの地域に、全く同様の動向を確認することができる。これらの状況から、西日本の諸地域と大和盆地東南部をつなぐ旧大和川ル-ト上に形成された遺跡群として一括して理解することが可能である。その場合、崇禅寺、垂水南、西岩田、中田遺跡群、(加美・久宝寺遺跡群)、本郷、船橋遺跡から纒向遺跡への流れが想定できる。

先に述べてきたように、中河内の旧大和川流域の諸遺跡では他地域系土器は山陰の他、吉備、讃岐、阿波系の瀬戸内地域の土器を主体とし、それに若干の北陸、東海系等が混在する。その一方で纒向遺跡では、それらに加えて東海、関東系等の東日本の土器も多数存在するというが実態である。この状況は地域差としてとらえるよりも、むしろ当時の纒向遺跡を中心とする大和盆地東南部地域への一方通行的な流通の実態を示していると考えたい。つまり、中河内地域の諸遺跡は西日本各地の「物」の大和盆地東南部地域への流通経路上に機能した流通に関わる一拠点集落群であり、その一方で東日本の諸地域から大和盆地東南部にもたらされた「物」は基本的には中河内をはじめ西日本の諸地域には流出しない社会的状況であったと考えるのが妥当ではなかろうか。
 ところで、当時の社会にあっては「中河内」的な状況は決して特異なありかたではないと考える。同様の例は、近江地域では斗西遺跡周辺、西播磨地域では丁・柳ケ瀬遺跡周辺や長越遺跡周辺、備中地域では津寺遺跡周辺、阿波地域では黒谷川郡頭遺跡周辺、讃岐地域では下川津遺跡周辺、筑前では西新町遺跡等の博多湾沿岸の諸遺跡、肥前では諸富町周辺で確認されつつある。これらの遺跡はその立地から「津」としての機能が注目される。その証左として地域内では傑出した量の他地域系土器が搬入され、またその地域特
有の土器も保持する場合もあって、他地域への搬出拠点にもなったと考えられる。纒向遺跡に搬入された膨大な量の他地域系土器を前提とすれば、大和東南部を頂点として旧国単位程度の地域間を繋ぐそれら港湾的機能を有する遺跡がネットワ-クとして形成された可能性が想定できる。


 溝咋遺跡(茨木市)
 阿波との流通について。流通における他地域系土器は結果であって、本来の内容がわか
ることは少ない。本遺跡では多数の阿波系土器と共に赤色顔料付着土器朱の精製に用いた石臼、L字状石杵などの朱関連遺物と、阿波吉野川流域産の結晶片岩材が出土8)しており、本来の物流の一端がわかる。

 ところで淀川流域から近江地域にいたる物流拠点では、中河内地域で確認できたような遺跡の密集状況は呈さない。中河内の中田遺跡群と類似する遺跡の密集状況は、奈良盆地東南部と岡山県の足守川流域、福岡県の比恵・那珂遺跡群で確認できるのみである。筆者は、これらを「港市」と想定し、密集度・面積の広さは遺跡のランクを示すと考えており、旧大和川を介しての物流の重要性を示すと想定している。

讃岐系は茶褐色をした特徴ある胎土でありながら、肉眼観察あるいは砂礫分析においては生駒西麓産胎土との区別がつかないので実態の把握が難しい土器である。

※従来の讃岐系土器と庄内河内式甕の区別はどこまで正確なのだろうか?


たとえば本稿で検討した、阿波や讃岐の土器は和歌山県の紀ノ川を遡り石川に入れば、最短距離で中河内あるいは大和盆地東南部に入ったはずである。しかし遺物の分布から見るかぎり、紀ノ川から石川に入るル-トは存在せず、瀬戸内から河内湖に入りで移動したと考えざるを得ないのである。

 弥生時代後期初頭、および庄内期新相~布留期初頭に他地域系土器の搬入が顕著になる。特に後者段階に顕著であり、その地域も北部九州を除く西日本諸地域、つまり阿波、讃岐、吉備、山陰地域等と広大になる。その一方で、大和盆地を含む東日本諸地域からの流入は、極めて希薄である。西日本諸地域、および中河内地域の土器は、大和盆地東南部にも入っていることから、中河内は西日本諸地域と大和を結ぶ中継点としての役割を担ったとも考えられる。


第3章 他地域系土器とその社会背景
第1節 大阪出土の讃岐・阿波・播磨系土器と製塩土器

2 各地の土器編年の状況
 最初に讃岐・阿波・播磨系土器、および製塩土器の概要について記す。
1)讃岐地域
 他地域に搬出される多くは、「下川津B類土器」(図1上段)と呼ばれる一群の土器である。器種には甕・広口壷・大型複合口縁壷・細頸壷・高坏・鉢・小型丸底壷などがある。この土器群は、胎土に角閃石、雲母、長石を含み、茶褐色あるいは赤褐色を呈し、伝統的な技法によって作られた特異な形態なので、識別が比較的容易 である。粘土採取地は石清尾山南麓であり、製作地および分布域は、石清尾山の東に隣接する高松平野である。高松平野中心部の遺跡出土土器は、6割が「下川津B類土器」で占められる。なお讃岐では、「下川津B類土器」の持ち込まれた丸亀平野に所在する下川津遺跡の土器編年が基準となる。
2)阿波地域
 他地域に搬出される多くは、「東阿波型土器」(図1下段)と呼ばれる土器群である。器種には、甕・広口壷・複合口縁壷・小型丸底壷の他、大型複合口縁壷などがある。この土器群は胎土に結晶片岩を含み、特徴的な形態なので識別が比較的容易である。結晶片岩が含まれるので 、粘土採取地は中央構造線に沿って流れる吉野川流域であることは確かで、製作地および主たる分布域は吉野川の支流である鮎喰川下流域と考えられている。黒谷川郡頭遺跡の資料で黒谷川Ⅰ~Ⅲ式に編年され、その後空白期間への追加を行い、Ⅴ-4 a~Ⅵ- 3 様式の6 様式に細分されている。
3)播磨地域
 播磨の土器は、明確な特徴が乏しく識別が困難である。現状では播磨西部地域で作られた「播磨型庄内甕」(図2)だけが識別可能である。またあるいは、播磨東部地域からも持ち込まれた可能性も強いが、詳細は不明である。庄内甕とは主に大和、中河内、播磨、筑前で作られた、内面ヘラケズリで体部を極限にまで薄く仕上げた叩き甕であるが、播磨型の特徴は以下のようなものである。
①口縁端部はつまみ上げており、端部外面が擬凹線状に窪み巡る。
②体部外面の叩きは、右上がりが優勢で、左上がりも若干ある。何よりも体部上半の水平方向に施す叩きが目立つ。頻度は、右上がり→水平→左上がりの順である。
③内面ヘラケズリが、体部上半に及ばない事例が多く、そこに1 次調整のハケ目が残る。
④新しい段階まで、小さな平底が残る場合がある。
⑤白灰色~灰褐色を呈する事例が多い。
 播磨型庄内甕は、播磨西部でも市川から揖保川にかけての狭い平野部で出土するもので、播磨の全域には広がらない。姫路市長越遺跡と太子町鵤遺跡の二遺跡が多量に保有し、その周辺の多数の遺跡では数点の出土に止まる。

6 まとめ
 最後に、大阪の東部瀬戸内系土器の分布と流通についてまとめる。
1)個体数は、阿波系が非常に多く讃岐系が少なからず確認できる。播磨系はほとんど確認できない。播磨系が少ないのは、認識しえないからとしておきたい。大阪では、吉備系土器が数多く出土するが、阿波系はそれと同程度と考えてもよい。
2)持ち込まれるのは、特定の器種に限られ、すべての器種ではない。阿波、讃岐ともに、壷と甕を主体的に持ち込んでいる。壷には日常的に使用する中型品と、土器棺と考えられる大型品、甕は内面ヘラケズリの「薄甕」である。
3)搬入の時期は、庄内期新相以降に急増し、布留期前半に盛期を迎える。分布は、中河内の旧大和川流域の沖積平野部と、摂津中部に集中する。特に前者では、中田遺跡群(萱振、東郷、小阪合、中田、東弓削、成法寺)と加美・久宝寺遺跡群(久宝寺南、久宝寺、加美、亀井北、跡部)の二大遺跡群に集中し、面的分布とさえいえる状況を呈する。摂津東部においては、河川流域ごとに特定遺跡への集中が確認できる。和泉では、少数の遺跡が確認
できるものの散在的である。それに対して北河内と南河内では、他地域系土器はほとんど確認できず、閉鎖的な状況がうかがえる。以上の諸地域の状況は、阿波・讃岐系の分布だけでなく、吉備・山陰系も同じである。
4)他地域系土器とそれを出土する遺跡分布の状況から流通ルートが復元できる。瀬戸内沿岸を通り、摂津中部を介して河内湖に入り、旧大和川をさかのぼり大和盆地にいたるのが幹線ルートである。他に、淀川右岸をさかのぼり山城や近江にいたる交流ルートや、大阪湾沿岸を往来するルートが推定できる。その一方で、南河内の石川を通じて紀伊と交渉を持つことはなかったようである。淀川右岸をさかのぼり、他地域系の分布を追いかければ、山城では水垂遺跡、近江東部では下長遺跡、近江北部では黒田遺跡など、溝咋遺跡と同じような流通拠点としての集落が立地している。それらの集落を核として、ネットワークが存在したことが推定できる。
4)大阪府内陸部の脚台式製塩土器はいまだ少ないが、庄内新相以降に、備讃瀬戸地域からも塩が運びこまれたことを示している。他地域系土器が持ち込まれた背景には、さまざまの物資、技術、情報の流通があるが、そこに塩が含まれていたことは確かである。地元の大阪湾岸地域ばかりでなく、備讃瀬戸地域からも塩をかき集めた、と考えられる。
 大阪の前期古墳には、阿波や讃岐的な要素が指摘できる。阿波との関連では、結晶片岩を使用した竪穴式石槨が多いことは一例である。しかもその地域は、阿波系土器が濃密に分布する地域と一致する。摂津東部では、茨木川流域に茨木市将軍山古墳と紫金山古墳、芥川流域に高槻市弁天山C1号墳と闘鶏山古墳がある。また中河内では、旧大和川流域の遺跡群に造営母体が想定できる玉手山古墳群と松岳山古墳群では、玉手山7 号墳と同9号墳、茶臼塚古墳に結晶片岩の使用が確認されている。
 讃岐との関連では、鷲の山石材を使用した松岳山古墳の長持形石棺と玉手山3 号墳の石棺と考えられる安福寺の刳抜式石棺がある。また積石塚である茶臼塚古墳と、積石を部分的に採用した松岳山古墳も讃岐の積石塚との関連でとらえようとする考えもある。



 北部九州系土器は、畿内ばかりでなく、ほとんど他地域には流出しないようである。現状で、その原因のひとつが「北部九州系土器の形態や胎土の特徴に乏しいことによる認識不足」によるとして、それが解消されて資料の増加を見込んだとしても、大枠はそれほど動かないと考える。

中河内の諸遺跡では、東海系よりも圧倒的に西日本諸地域の土器が多数出土する。具体的には、吉備、讃岐、阿波、山陰系が多数派であり、東海系を含む山城、近江、北陸系などの東方の諸地域系は少数派である。


第5章 鉄器と鉄器生産
まとめ
 最後に、本章第1・2節では述べなかった古墳時代初頭・前期の鉄器化について記し、まとめとする。先に述べたように弥生時代以来、近畿への鉄器の流入・鉄器化の進展と集落の動向には一定の一致点を見出だすことができる。近畿の鉄・鉄器研究にとっては、はじめにで指摘した高度な鍛冶技術はもちろん、三角形鉄片の廃棄も古墳時代初頭期以降に盛行する可能性が高い。古墳時代初頭期における鉄器化の画期について、各地域の集落動向が大きく関わると考えられ、背景にはそれら集落による広域の地域間流通がある。

阿波の加茂宮ノ前遺跡、淡路の五斗長垣内(ごっさかいと)遺跡では、弥生時代国内最大級の鍛冶遺構が見つかっています。ここから鉄器が供給されたのでしょう。


終 章
1)摂津中部と旧大和川流域の流通拠点
 流通拠点としての集落の集中と他地域系土器の出土数量において、摂津中部と旧大和川流域に立地する集落は別格である。摂津中部から河内湖に入り、旧大和川をさかのぼって大和盆地東南部に至るルートが当時の幹線ルートであることが明確である。摂津中部には崇禅寺遺跡や垂水南遺跡など、河内湖の南沿岸部には西岩田遺跡、旧大和川流域の大阪平野部には巨大な中田遺跡群と加美・久宝寺遺跡群の二遺跡群、さらにさかのぼって船橋遺跡などが立地し、そして大和盆地東南部の纒向遺跡にいたる。これら旧大和川流域の遺跡からは吉備、讃岐、阿波系や山陰系などの西日本の土器が非常に多く、大和や北近畿のほか、北陸、東海、関東系などの東日本の土器が少数ながら出土する。なお吉備以西の西日本からの他地域系は少ない。そしてこれらの他地域系土器は、在地化や模倣品は少なく、搬入品であることが一般的である。

流通によって持ち込まれた物資に塩とのあったことは、多くの製塩土器と朱付着土器の出土することから明らかである。また特殊な遺物としては素環頭鉄刀(崇禅寺)、銅鏡(加美・久宝寺、瓜破北、矢作、池島・福万寺)、銅剣(加美)、筒形石製品(加美)、メノウ製鏃形品(大竹西)、陶質土器(加美)や墳墓の築造に関わる吉備の特殊器台(東郷、萱振、小阪合)、前期古墳に敷かれる白石(中田)などがある。他にも多くの物資が持ち込まれ
たのであろうが不明である。在地生産できない物資や威信財、墳墓に関わる各種物資が流通の主体であったと考える。
 ところで、旧大和川流域には準構造船関連の資料が多い。


 2)淀川流域の流通拠点

 溝咋遺跡では、庄内期前半から布留期の遺物が確認でき、盛行期は庄内期後半~布留期初頭である。他地域系は多様で吉備2点、讃岐6点、阿波14 点、山陰23 点、中河内14 点、播磨1点、北近畿3点、近江11 点、北陸1点、東海6点、関東2点が確認できるが、比率は古式土師器全体の1%と少ない。旧大和川流域との違いは近江、東海系の多さが目立ち東方地域との流通が確認できる点と、吉備系の少ない点である。

 旧大和川流域の中河内は、山陰地域と吉備、讃岐、阿波の瀬戸内中部諸地域との関係が強く、日常的な交流関係が想定できる。また、吉備以西の他地域系土器が少ないことからすれば、足守川流域遺跡群を主体とした吉備を中継する流通が想定できる。あるいは、山陰系の搬入が吉備を中継したことも想定できよう。


3 流通拠点と古墳
・・・それら拠点集落で出土する前期古墳の築造に直結する物資や要素-吉備の特殊器台、阿波の朱、古墳に敷く白石、青銅鏡、鉄刀、朝鮮半島の土器などは、広域流通によって持込まれた物資・情報であり、それに果たした首長層の関与は明らかである。
 広域流通ルートの中心にある纒向遺跡の場合、集落内に石塚・矢塚・勝山・ホケノ山・箸墓古墳などがあり、周辺には北方に大和古墳群と柳本古墳群、南方に桜井茶臼山古墳とメスリ山古墳が隣接する。箸墓古墳をはじめ大和盆地東南部での巨大前方後円墳の集中は別格である。

1)玉手山古墳群と松岳山古墳群
玉手山古墳群と松岳山古墳群の築造が古墳時代前期前半から中頃にさかの
ぼる・・・
結晶片岩を使って竪穴式石槨を築造した古墳として、玉手山2・7・9号墳と松岳山古墳・茶臼塚古墳が確認されている。石材は、紀伊の紀ノ川流域と阿波の吉野川流域に産するが、紅簾石片岩が含まれることが多く、後者から持込まれたと考えてよい。摂津東部の茨木市域では紫金山古墳と茨木将軍山古墳、高槻市域では弁天山C-1号墳と闘鶏山古墳に採用される。なお小片ながら、結晶片岩は溝咋遺跡からも出土している。また大和では、燈籠山古墳、東殿塚古墳、櫛山古墳、柳本大塚古墳、メスリ山古墳などの王墓や大
型古墳に採用される。

③墳丘の葺石において垂直板石積みが、玉手山1号墳と松岳山古墳・茶臼塚古墳で確認された。同様の工法は、香川県石清尾山古墳群の稲荷山姫塚古墳、北大塚古墳、鏡塚古墳、鶴尾神社4号墳などで確認される。また松岳山古墳と茶臼塚古墳は、積石塚状墳丘であることが確認されたが、やはり石清尾山古墳群を中心にした讃岐には多数分布する。積石塚古墳とそこに見られる垂直板石積みは、石清尾山古墳群を主体とした四国東北部に分布し、しかも系譜の追える墳丘構築技法である。そして近年、他地域で見つかる讃岐系胎土が、石清尾山古墳群の西を流れる香東川流域で産出されることが明らかになっている。讃岐における流通拠点の存在は未だ明確ではないが、高松平野西部の香東川流域に流通拠点が存在する可能性は高く、積石塚古墳の築造はそこを中継とする広域流通を背景に技術移転がなされたと考えておきたい。
④玉手山3号墳の埋葬施設とされる割竹形石棺と松岳山古墳の古式の長持形石棺の側石は讃岐から持込まれた石材である。玉手山3号墳の割竹形石棺については、形態的にも前後両端に各1個の縄掛突起を有する典型的な讃岐のくり抜き式割竹形石棺であり、讃岐地域の中で系譜の辿れる石棺である。そのことから、松岳山古墳の被葬者と讃岐の高松地域に拠点を持った首長層同士の交流によって、完成品が持ち込まれた可能性が指摘されている。一方、松岳山古墳の場合は側石のみが讃岐産で、蓋石と底石は花崗岩であり当
地付近で採石が可能である。これらの事例から、石棺そのものが持ち込まれる場合と石材が持ち込まれる二者のあることがわかる。
⑤工人あるいは技術の移動を示す事例として、松岳山古墳と茨木市紫金山古墳のヒレ付楕円筒埴輪20) がある。楕円筒埴輪にヒレを付ける事例は両古墳だけで、同一工人か少なくとも同一集団の製作した埴輪と考えられる。ただし両者の埴輪は胎土が異なっており、一
方で作った埴輪を他方の古墳に運んだ状況ではない。紫金山古墳は、茨木川を通じての流通拠点である東奈良遺跡と郡・倍賀遺跡との関連が想定でき、広域流通網における情報・工人の移動が背景にあると考えたい。





図4 讃岐・阿波系土器が出土した遺跡分布







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