060.外交官の家
■明治の外交官の暮らしぶりがわかる
JR石川町駅の駅を西に降りて山手を見上げると、カラフルな明るい色の8角形の塔のある家が見える。これが外交官の家。この家はもともと、渋谷の南平台にあったものが移築されたものだ。建てられたのは明治43年で、昭和47年にとりこわされ平成9年にここ横浜のイタリア山庭園に復元移築された。築114年を経過しているが、手入れが行き届いて風格がにじみ出ている。日常の清掃を含めたしっかりと管理が行われていることに感謝したい。
この家は単に古い家というだけでなく、日本が「大日本帝国」として世界に乗り出していこうという黎明期の外交官がどんな暮らしぶりをしていたのか、ということがよくわかる興味深い一軒でもある。
日本は、ずっと日本だったといわれる。が実は日本が「日本」ではなかった時代がある。といっても別の国だったわけではない。日本は、明治維新以来、近代国家を目指して新たなスタートをし、欧米の列強に倣って1890(明治23)年に憲法を定めた。制定された正式な憲法が「大日本帝国憲法」だった。つまり、日本の正式な国名は大日本帝国だったのである。詳細はおいておく。
言いたかったのは、日本はいきなり国を開き江戸から明治に入った。遅れてきた少年が、いきなり列強が支配する大人社会に交じって、馬鹿にされまいと背伸びをするように虚勢を張っていた時代の外交官というものがどんな位置にあったのか、そんなことがわかる家でもある。いまでは外交官といえども持てないようななかなか立派な家なのである。
■外交官の「私」の中の「公」
明治40年代というと、洋式建築を学んだ初期から一段落して、実際に海外で生活した経験を持つ人間も増えて和洋折衷建築も生まれてきた時代である。設計は立教の教師として来日したJ・M・ガーディナー。当時としては珍しく建築仕様書なども残されているため、復元移築も問題なく行われたようだ。
建築主の内田定槌は、ニューヨーク総領事やトルコ特命全権大使などを務めた外交官で、海外暮らしが長かったことから洋風の生活に慣れていた。さらには外交官として国内に戻っても、それなりの駐日外交官との付き合いがあったことから住居として洋風の家を作らせたようだ。
建物としては、外交官としての仕事にかかわる夫婦ようにこの洋館部分が作られ、廊下を通じて和風家屋の別館があり、家族はそちらに住み、暮らしていたようだ。家父長時代を思わせる造りでもある。
その意味では、この洋館部分は表の顔としての外交官の家、というのは適切なネーミングということになるか。食堂や大小客間、客用寝室、供侍室など、客を接待するための作りになっている。
現在使われていないが、玄関ホールには内田家の家紋がデザインされた扉があり、ホールへの扉にはステンドグラスがおさめられている。入った瞬間、来客は由緒ある家だという印象を抱くであろう。入ると玄関ホールで左に供が待つ室、まっすぐ進むと客間、食堂がある。
■たくさんあるステンドグラスも興味深い
ステンドグラスもたくさん使われていて、興味のある方にはうれしい。
食堂には中央に大きなテーブルがあり、現在のものは残されたわずかな木材から復元されたもので、暖炉風のストーブなど、追いついた装飾が施されている。
客間は大小二つあって、食堂につながる小客間の左右に大客間とサンルームがつながっている。第客間は多くの人が集まってにぎやかに話す場、小客間は食事の合間や食後にコーヒー、たばこ、アルコールなどを楽しむ場として使われた。
■2階は4寝室を備えた私的空間
多くの客が頻繁に利用したのだろう、2階は4つの客室を備えた私的な空間である。
2階の中心は夫婦の主寝室であり、窓面が多く明るい。移築された現在は、この面は北西面に向いていて、陽がさんさんとさし込むという形にはなっていないが、元の南平台にあった当時は南面を向いていたのだろう。
付随してサンルームの2階部分が婦人用の化粧室になっている。このサンルーム部分は外から見える1-2階を通した8角形の塔の部分に当たり、日当たりの良い、快適そうな部屋だ。
・横浜市指定歴史的建造物
建築年代:明治43年(1890)
設計:J.M.ガーディナー
・中区山手町16番
・TEL.045-662-8819
・9時30分~17時(7~8月は18時まで)
・第4水曜(祝日の場合は翌日)・12月29日~1月3日休館
・入館無料
この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?