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046.象の鼻パークと新港橋梁

≪3.生糸貿易をささえた横浜の洋館・建造物021/みなと地区≫
*真ん中を右から左へと伸びているのが象の鼻。右にタテに伸びているのが大さん橋。手前を左右に通っている高架通路が、元鉄道線路があった遊歩道のプロムナード。
 
 横浜港の観光名所の一つに、大さん橋の根元近くの象の鼻パークがあります。ここには、少し曲がった防波堤があり、これを「象の鼻」と呼んでいます。現在ある象の鼻防波堤は、開港時に作られた唯一の埠頭とは別に、新しく作られたものですが、形や大きさなどはほとんど当時のものを模して作られているようです。
 
 ■象の鼻
 湾曲していますが、長さは約106メートル、幅3.8メートル、水深2.0メートル、石造りで、現在のものは一部ブロックが使われています。最初に作られたのは慶応3(1857)年のことです。
 1859年の開港と同時に作られた、東西2つの埠頭が火事で焼失した後、慶応2(1866)年、新たな埠頭を設置しました。その湾曲した形から地域の人たちから「象の鼻」と呼ばれるようになった埠頭ですが、象は当時の日本人にはなじみのない動物で見た人はほとんどいません。となれば、外国人が呼び始め、それが日本人に広まったのではないのかと思います。
幕府は、侵略を恐れたために象の鼻には直接外国船が着眼できるようにはしませんでした。外国船は沖合に停泊し、はしけを使って埠頭へ行き来するようになっていたのです。はしけへの積み込み、積み下ろしが安定してできるように防波堤を兼ねた湾曲した埠頭を外国船向けに建造したのが像の鼻でした。
 湾曲している理由は、内側にはしけの船泊を設け、防波堤としての役割も持たせたためです。この正面に運上所を作り、ブラントンによって、そこから内陸に向けてまっ直ぐに道路を作って先端に公園を造りました。いまのヨコハマ・スタジアムのある横浜公園です。
開港するにあたって、新港地区整備され、日本の商店街、外国人向けの居留地などが作られましたが、これが日本で最初に計画された近代的な都市計画といってもいいでしょう。

新港地区、象の鼻、大桟橋の位置関係がよく分かる昭和初めの地図。

象の鼻は外国船の荷物の積み込み、積み下ろし用はしけの埠頭として使われたのは、大桟橋(022:初代鉄桟橋)が完成した明治27(1894)年までのことでした。
新港埠頭や大桟橋が作られると、はしけで往復して荷物を積み替えるのは手間がかかるとして、象の鼻は国内船の小型船の荷上場として利用されるようになり、内側が小型船の船溜まりとして利用されるようになりました。
その後、大正2(1913)年に貨物輸送を効率化するために新港地区にあらたにレールが敷設され、大桟橋の入り口、象の鼻地区まで延長されました。主として大桟橋で荷下ろしする貨物も鉄道で輸送されるようになり、荷役作業は格段と効率化されました。ここから先の山下埠頭まで線路を敷設したいところでしたが、海辺との間にスペースがなく、線路が延長されるのは戦後になってのことです。 
 大正12(1923)年の関東大震災では、象の鼻は沈下し根元部が崩壊してしまいました。そのため、ブロックなどを使って改修されましたが、その後は荷上用の埠頭としてではなく、防波堤としての役割を果たすようになっていました。現在の象の鼻とほぼ同様です。
 
 大桟橋に着いた貨物を輸送するための鉄道が敷かれましたが、同時に、大桟橋-象の鼻地区にある鉄道まで荷物をピストン輸送するレールが敷かれ、台車が用いられました。その台車が方向転換するための転車台の遺構が象の鼻パークの敷地に、表面に透明の樹脂版で覆われ、展示されています。レール幅は鉄道と同じ1.06メートルで、回転台の直径は2.5メートルほど。荷物運搬用の台車用らしいと説明版に書かれていますが、大八車ではなく、わざわざレールを敷き、台車を作り、回転台を設けるほどの有効性があったのかと、疑問です。文献・資料にもあまり登場していないことを見ると、どのくらい有用であったのか、有効性にも?がつきます。

荷役用に台車のものと思われる転車台の遺構が工事中に掘り起こされ、
透明の樹脂版でおおわれて見られるようになっています。
レール幅などで、使われた台車のサイズなどを想像してみるのもいいでしょう。

■新港鉄橋
 桜木町駅から赤レンガ倉庫の横を通って象の鼻まで臨港線が延長され、大正元(1912)年、新港地区と象の鼻の間を鉄橋でつなぐ新港橋梁が設けられましたが、この新港橋梁は、大蔵省臨時建築部が設計したという珍しい鉄道橋で、浦賀船渠株式会社で作られた100フィートのポニー型のワーレン・トラス橋です。汽車道の港三号橋梁(041)よりも両側のガードが少し高めに作られており、ワーレン・トラス構造としてはタテの支えケタが入れられているあたりは、震災後の強度を補強した独自の工夫のように見えます。
 浦賀船渠は明治32(1899)年に浦賀に作られた造船所で、のちに、住友重工業㈱浦賀造船所となるのですが、大正時代に入ると、造船と並んで鉄鋼構造物づくりが大きな事業の柱になっていきました。

ワーレン・トラス構造(斜めの支え)にタテのケタが入れられている独自の構造である
ことがわかります。 橋の向こうに赤レンガ倉庫が見えます。左手前に説明版が置かれています。
一緒にご覧いただくといいでしょう。

大正元(1912)年浦賀船渠株式会社製の銘板がついています。浦賀船渠(株)は渋沢栄一ら
によって設立されて10数年、造船だけでなく鉄鋼構造物にも実績を積み重ねつつあったころです。
素材の鋼鉄は八幡製鉄所製でしょう。

 いま、ここから先は、山下公園まで、高架でつながった遊歩道「山下臨港線プロムナード」になっているのですが、このプロムナードのコースが、昭和40(1965)年にレールが敷かれ、貨物列車の走る線路だったことを知る人は地元の人くらいになりました。
 象の鼻から山下公園まで線路が敷設された昭和40年には、貨物の中心はトラックによる一貫パレットやコンテナ輸送、さらに航空機の時代に移りはじめており、鉄道の敷設は“時すでに遅し”の感がありました。
 この新港協力結ぶ両側、赤レンガ倉庫と大桟橋は昭和31年まで米軍に接収されていて大さん橋はサウスピアと呼ばれていました(この対岸、ハマウィングのある埠頭は瑞穂埠頭ですが、ここが米軍ノースピア。)。周辺が開発の遅れもあって地域活用の体制ができていなかったなどの影響もあり、鉄道の利用は進まず、線路は延長されたものの期待されたような効果的な働きもできずにおわりました。戦後に米軍に接収されていた期間が長く、廃止される運命にあったといえるかもしれません。
●所在地:横浜市中区海岸通1丁目 

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