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浦賀ドック――世界でも希少遺産の2つのレンガドック(2)

             浦賀は、細長い湾を挟んでV字に発展した町。
     湾口近くの川間と、浦賀ドックの2つのドックが残されている。

■武士と町人が喧嘩――浦賀の二つのドックで
そもそもどうして浦賀に2つのレンガドックが作られたのか、いきさつを見てみよう。
浦賀は東京湾への入口に位置する海洋輸送の要衝である。
 
享保5(1720)年には、江戸湾に出入りする船の積み荷を改めるために浦賀に奉行をおき、船番所を設けて積み荷を改めた。
 
開国後、幕府は自ら戦艦の建造をめざして、嘉永6(1853)年に浦賀湾にそそぐ長川河口にドックを作り、浦賀奉行与力の中島三郎助らに洋式帆船の軍艦鳳凰丸を作らせた。
万延元(1860)年にアメリカへ出港前の咸臨丸を修理したのもこのドックだった。
 
しかし、明治9(1876)年になると、幕府が横須賀製鉄所を建設したことから、この造船所は役目を終え、閉鎖されてしまった。
 
明治も中頃になると、産業も徐々に起こり、輸送を担う船舶への需要も急増し、民間資本で造船事業を行おうという動きも生まれてくる。
 
東京湾口というロケーションの良さに目をつけて、浦賀への造船所建設を目指したのが、渋沢栄一が中心になった石川島造船所と、農商務大臣などを務めた榎本武揚らの2つのグループである。
 
石川島造船所は明治28(1895)年、浦賀分工場を設立して川間にドックを造り、31年から営業を開始する。
一方、榎本武揚らのグループも浦賀船渠㈱を興して明治32(1899)年にドックを完成させる。
 
こうして2社がほぼ同時期に、競うように浦賀に造船所を造るのをみて、明治28年3月8日の国民新聞も、さあ、どっちが勝つかとはやし、「浦賀に二大船渠、武士と町人喧嘩」と揶揄している。
 
結局この勝負、いざ営業を始めてみると、ダンピング合戦になって、両社とも営業的に立ちいかなくなり、明治35年浦賀船渠(後の住重)が石川島造船所を買収することで、決着がついた。

幕末に湾に流れ込む川の河口をせき止めて、掘削しドックをつくった。その後、明治30年頃に、
石川島造船所と浦賀船渠という2つの会社が競ってレンガドックを作った。

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