見出し画像

017.居留地48番館(旧モリソン商会)

≪3.生糸貿易をささえた横浜の洋館・建造物036/山下地区周辺≫
 *KAAT(神奈川芸術劇場)/NHKの左側を、山下公園の方に向った次の右角に外人商館の遺構が残されている。通りを挟んで向かいには2020年にホテル・ハイアット・リージェンシーがオープンした。新旧の対比も面白い。
 
 
  ■外国商館の遺構
  ここは、明治期、英国人で最も早く、横浜に来た一人で紅茶(輸出)やダイナマイト・大砲(輸入)などを扱っていた商人J.P.モリソン(Jmaes P. Mollison)の事務所兼住宅として建てられた建物の遺構です。関東大震災で崩壊した家の1階の外壁が一部残されています。
 横浜には、1858年の修好通商条約の締結とともに、多くの外国人商人がやってきて、西洋の物産が一気に入ってくることになりました。しかもそれは、長崎の隔離された出島と違って、一般の市民が生活する隣に、西洋の市民の生活がそのまま入ってきたのです。
 幕府は、外国人が暴漢から襲われることを避けるため、あわてて外国人が住むための地区、居留地を設定し整備を始めました。それが横浜中心部の日本大通りから東側、山手までの間です。居留地には、家や店舗、商品を並べるショールームが建ち、活発な取引が繰り広げられました。
開港時、外国人たちが欲しがったのが生糸、お茶でしたが、逆に日本人、特に資金を持っている各藩が欲しがったのが、幕末の混乱期で、対外国の侵略対策だけでなく、国内の勤王/佐幕の混乱の中で生き残りを図る大砲などの武器でした。多くの外国商社がこうして、日本の店舗で、大砲などの武器の販売合戦を繰り広げたのです。

 さて、こうして建てられた商社は、それまで日本人が経験したことがないような構造のものだったので、それぞれ母国の設計技師が呼ばれて、母国のデザイン、構造・洋式の家が作られました。残されていれば貴重な遺産となっていたはずでしたが、残念ながらこれらはすべて、関東大震災で倒壊してしまいました。
 そんななかで、レンガや石造りの家が倒壊は免れませんでしたが、一部が、遺構として残りました。そんな遺構が見られるのが、本町通りのKAAT(神奈川芸術劇)/NHKの裏にある居留地48番地の建物なのです。

案内板。建物の平面図が描かれている。当時の外人による洋館の構造が分かります。

 場所は、本町通りと山下公園の間、KAAT神奈川芸術劇場の手前を入ったすぐ裏。通りを隔てた向かいでは、高級外資系ホテル、ハイアット リージェンシー 横浜が2020年に完成しています。
 モリソンは、1844年に、スコッドランドに生まれ、早くから製茶の販売業をするごとを希望し、上海に渡った時は20歳だったそうです。そこで開港間もない横浜が製茶の産出が多いことにいち早く目をつけ、横浜にやってきて製茶検査人を兼ねて製茶貿易を始めました。
 モリソンが、この48番にJ.C.フレーザーと製茶販売の店を開いたのは慶応3年(1867)のことでした。
 その後グラスゴーのノーベル社製ダイナマイトやその雷管・導火線類を取り扱うようになりました。我が国に最初にダイナマイトを輸入したのがモリソンで、我が国の鉱山業の発展に大きな貢献をしたとされています。
 当時は、外国人商人の最古参の一人として信望も厚く、外人商業会議所長や、現在も横浜に続いているクリケッドクラプの部長、横浜文学及び音楽協会長などを歴任していたといわれ、文化面でも日英の文化面の交流に大きく貢献したようです。

 案内板に描かれたモリソン商会は、向かって右側に開放的な明るいベランダを持つ事務所と、左側には高い煉瓦壁にかこまれたモリソン邸と思われる4本のイオニア風の柱頭飾りのある円柱を甚調とした重厚なバルコニーを持つ二階建ての西洋館のようです。

もともとの建物は自宅と事務所が並んだ、窓に櫛型のペディメントを飾り、
鎧戸を備えたコロニアル様式を示す建物だったようです(「日本絵入商人録」より)。

 遺構の窓からのぞくと、壁は長手/長手/小口/小口の繰り返しという独特なレンガの積み方が見え、日本式家屋の屋根の小屋組みと違った西洋式の小屋組み=トラス構造の木組みが置かれています。

遺構は保護されていて、窓から中を見ることができます。
屋根の小屋組みトラスの構造が見られます。

 こうした遺構は、本町通りを挟んだ向かいのシルク通りなどにもあり、日本人が建てた洋館と違って、生活の様子を想像させる西洋人による洋館の遺構も興味深い。
 また、外国人が盛んに幕府に売り込んだ大砲などが掘り起こされ、近くに展示されています。ダイナマイトも鉱山に利用されただけでなく当然武器としても利用されます。自分の出身国の敵になるかもしれない国に武器を販売する商人たち。商売、取引というものの両面性がうかがえます。
明治維新に際しての開港が、単に友好だけで行われたものではなく、一触即発の戦争危機を含んだ状態での取引だったということをこのことが示しています。
 ●所在地: 横浜市中区山下町54

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?