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043.旧横浜港駅・旧横浜港税関跡遺構

 *ポートトレイン用の横浜港駅。赤レンガ倉庫の2号館裏にある。
 

 ■埠頭に鉄道――最新の港湾施設が完成
 開港以来、生糸をはじめ輸出入の需要が増えて荷扱いが膨大になり、鉄桟橋=大桟橋を作りましたが、1本の桟橋では荷扱い量に限度があり、H.S.パーマーにより港湾の整備計画が作られ、その結果、新港が作られることになりました。
 新港計画は、明治32(1899)年に工事が着工され、赤レンガ倉庫のある地区が埋め立てられ、明治38(1905)年、新港埠頭の第一期工事が完成しました。
 
 赤レンガ倉庫は明治44年(1911)年に完成し、埠頭に乗り入れる鉄道路線は明治43(1910)年8月に作られ、翌明治44(1911)年9月に運用が開始されています。
「041汽車道、港一号、二号、三号橋梁」で提示した新港鉄道路線の地図をここで再度掲載しておきます。1号ドックから右に海の中を伸びたルートが汽車道であり、その先が埋め立てられた新港地区です。

桜木町と汽車道、新港地区。この路線には転車台はなく、
蒸気機関車をUターンさせるようなループもありません。
汽車道から入ってきた蒸気機関車は、反転できず、
バックで戻るしかないことが分かります。

 これまで埠頭近くにほとんど倉庫がなかったので、貴重品用の倉庫として耐震・防火機能を備えた赤レンガ倉庫を作り、12の直接接岸できる埠頭と、14の倉庫のほかに、クレーン、引き込み線などが設けられた最新の港湾施設でした。
 なによりも、鉄道が乗り入れる埠頭は、これからの港湾のあるべき姿としてその有効性が国際的にも喧伝されながら、伝統的な港湾ほど新たに鉄道を敷設するスペースを確保することが難しく、ヨーロッパでも1,2しか作られなかった世界にも数少ない画期的な港湾施設・埠頭だったのです。
 
 ■旧横浜港税関跡--完備された旅客ターミナル
 新港ができた明治末期は、この港を利用する貨物も多く、赤レンガ倉庫の裏は、輸出入の貨物の荷捌き所になっていました。しかし、輸出入が増えると通関業務も徐々に増加することになり、大正3 (1914)年になると、ここにターミナルを兼ねて横浜税関右突堤中央事務所が作られます。
1階には「硝子張天井」のホールと受付カウンター、2・3階には事務室や応接室、外航船や荷役のための貸事務所があり、税関やイミグレーションの空間も別天地、ガス暖房や電気照明も完備されていた3階建のゴシック様式の立派な建物でしたが、関東大震災により焼失してしまいました。
いまでいえば、成田・羽田に匹敵する外国との接点ですから、最先端の技術とデザインを駆使した最新の設備だったのでしょう。

旧横浜税関(横浜税関右突堤中央事務所)遺構。奥に赤レンガ倉庫が見えます。


旧新港地区に設けられた横浜税関右突堤中央事務所(出展:大蔵省「横浜税関新設備写真帖」)。
いまは礎石部分が掘り出され、赤レンガ倉庫裏に展示されています。

 この新港では、輸入貨物がここで鉄道に積み込まれて、仕向地に向けて発送されたほか、埠頭まで鉄道がそのまま入れる便利さから、外国航路の便もここが使われることになりました。岡晴夫の「憧れのハワイ航路」は昭和23年の歌ですが、当時はまだハワイ航路はありません。イメージ上のものなのですが、ホノルル経由のサンフランシスコ行きは、日本郵船の浅間丸、香取丸、氷川丸(ブラジル)などが出ていて、新港埠頭が利用されていました。
 この新港施設は、第二次大戦後米軍に接収され、10年ほどの間、米軍の物資の輸送に使われていました。接収が解除され、横浜市に返還されたのが昭和31(1956)年、その時期になると、大型化している船舶に対応できず、あまり利用されることはありませんでした。
 その遺構が「赤れんがパーク整備」工事を行っていた際に発見され、2002年以来、一部が掘り起こされ、整備されて、花壇として利用されています。最盛期だった当時の栄華の状況を想像しながら見てください。

●横浜港駅・所在地:横浜市中区新港1丁目1

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