071.官僚として能力が問われる時代へ

 勘定奉行にふさわしい家格の武士たちは計算ができず、財務処理を誰もやりたがらないのですから、下級武士にとって、実力さえつければ、登用される可能性は大です。下級武士にとって、勘定奉行という職務は、またとない出世のねらい目になりました。
 足高制が実際にどのように利用されたのか、勘定奉行についてみると、実施以後では500石以下層からの登用がその半数近くを占め、「徳川時代中期以降に活躍した勘定奉行の中には、禄高が150~200石という、旗本でも最下位の身分の出自ながら、順次に昇進して、3000石相当の勘定奉行にまで至ったという経歴の持ち主」が何人もいたと、笠谷和比古は紹介しています。


足高制による登用件数(「武士道と日本型能力主義」笠谷和比古)P.133の表より作図)


 ここで初めて、有能な人材が活躍する場が作られるのですが、他方、旧来の家制度の上にあぐらをかいた武士は、大きな失政がない限り家禄を召し上げられることはなく、相も変わらず遊民的に時を過ごし続けることになったのです。
 勤務時間をきちんと守ることを重視して、効率を無視するという責任の果たし方は、一般的には共産主義の計画経済の下での労働の特徴です。各担当者が担当の業務を分担してこなすことに意味があり、効率は求められなかったという武士の立場はこの点で計画経済的です。
 江戸時代=封建制度=専制政治、というイメージがあります。しかし、働き方という点で改めて見てみると、藩そのものが領主の専制という形を取りながら、家老らの高級家臣団による合議制で決められることが多かったということもあり、藩の運営は、武士というギルド(職業別の寄合)により、きわめて計画経済的に行われていたというのが正しい理解かもしれません。
 そして、勘定奉行だけでなく、藩の行政の各所で、旧態依然たる計画経済的な運営体制を打破する新しい発想を持った勢力として、下級武士の中から有能な青年が登用されるようになり、新しい集団が生まれてきます。江戸時代の後半は、幕府・各藩ともにこうした下級武士たちが、高い能力を発揮して、財政の改革を進めていった時代でもあります。
 維新の原動力になった幕末の志士たちや、伊藤博文などの明治時代を動かした人材に、足軽などの下級武士の出身が多いのも、うなずける気がします。
 勤勉な農民、気ままな職人、遊民となった武士、そして有能な下級武士……それぞれがそれぞれの立場で仕事を果たしながら、開国という新しい時代に向かって世の中が流れていきます。

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