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5-4. 会社のために働くな、自分のために働け。

 本田技研工業創立者 本田宗一郎

 かつてはこうした言葉はまったく聞かれなかったが、いまでは、会社のためより自分のために働けと発言をする人は珍しくない。損得ではない、生き方としてそうせよと言っているのだ。

 しかし、この本田がこの言葉を発したのは、1950年のことである。戦後5年、必死に事業を立ち上げようとしていた日本の産業界は戦後の荒廃からどう事業を立ち上げるか、どう事業を育てるか暗中模索の時代である。そんな時代に、事業化するには個人が重要だと喝破し、働く者ひとりひとりのことを考えていた社長がどれだけいたのか、それを考えただけでも、本田宗一郎という男が並みの経営者ではないことが分かる。
自分が仕事に取り組む状況を考えたら、社員も基本は同じだろうと気づいたということかもしれない。自分を突き放し外から見ていたということか。

 ホンダが世界的な企業となってからは、立場上、本田宗一郎自身も、会社のため……という観点から判断せざるを得ないことも多かったようだが、そんな時代になってもホンダはしばしば、会社としての意思決定の場面においても、働く一人の人間、技術者としての自分の関心にまっしぐらに突き進んでゆくタイプの人間だった。

 自分に興味のあること以外は、ほとんど関心を持たなかったと言ってもいいだろう。こうした強烈な個性が、新しいことを始めたり、大きな集団をリードしたりする時には必要なのである。

 ホンダがモーター付きの自転車、バタバタを開発したのは戦後すぐだが、昭和25年に法人化した。その頃すでに本田は、

「良品に国境はない。世界一にならなければ、日本一を維持することはできない。だから世界一の会社を作るんだ」

と言っている。

自転車にモーターをつけたバタバタを作っていた町工場の時代に作られたホンダの社是は「世界的視野に立ち・・・」である。この夢の雄大さ、スケール観を見習いたいものだ。
 やっとバイクが売れるようになった時代の、油にまみれた作業服を着た、小さな町工場のオヤジの言葉として、世界を見据えたそのスケールの大きさは注目の的だった。
 普通に聞けば、「そんな戯れ言を」と聞き流されるだけだが、本田の話は不思議に説得力があり、聞く人に本当にやりそうな気をさせたようだった。自分の思いを正直に出さざるを得ない技術者の邪心のなさが、聞く人にそれを信じさせる力となったのであろう。

 それからしばらくした昭和29年、本田は、

「わが社は……おそらく数年を待たず、名実ともに世界一のオートバイメーカーになると思う」

とブチあげている。

 結局は個人の力が問題だ……という意見は、成功者には常識のようだ。トッパン・ムーアの創始者である宮澤次郎は、それを次のように言う。



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