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横浜製鉄所が残した足跡(2)

                                             富岡製糸場の鉄水槽(繰糸用の水を蓄える水槽)

■機械工作のイロハを伝授
工場は、広さ約4,300坪、変形四角形の土地で、鋳造工場、錬鉄工場、製缶工場、旋盤工場、木型や木工用旋盤、模型工場・・・など16棟をもつ、最新鋭の工場だった。

再掲:JR根岸線石川町駅あたり(吉浜町)にあった横浜製鉄所(石川口製鉄所)

 
首長にフランス船セミラミス乗員のドローテル海軍技官が就任。横浜製鉄所に雇い入れたフランス人技術者は12名で、専門は、錬鉄、鋳造、製缶、木型、鑢鑿(りょろ:ヤスリ・ノミ)などで、横浜製鉄所では、輸入した鉄材を利用して、横須賀製鉄所で使用するヤスリやノミなどの工具類から、小型の蒸気機関などを製作。
そのプロセスで機械加工技術のイロハから伝授し、日本人職工を育成した。
 
横浜製鉄所の役割は、横須賀製鉄所を成功させるためのパイロット工場であり、横須賀工場が立ち上がって稼働を始めればその役割は終わる。
 
とはいえ、1865年当時、本格的な設備を備えた洋式工場としては、幕府が安政4(1857)年にオランダ人技術者を招いて長崎に作った造船施設「長崎鎔鉄所」があるだけで、江戸付近には皆無だった。
 
水戸藩が隅田川の河口に作った石川島造船所にしても、造船に必要な設備がそろっているわけではなく、その運営には苦労をしていた。
 
そこに、本格的な設備を備え、しかも最先端の技術を持った技術者が指導する工場ができたため、注文は殺到した。
船舶修理だけでなく、機械加工を行う設備と技術があったために、当初のねらいであった横須賀製鉄所用の工具や設備を作る一方、多くの依頼に応じて、さまざまなものを製作した。
  
 
■富岡製糸場の鉄水槽を製作
富岡製糸場にある繰糸用の水を蓄える鉄製の水槽も、輸入した鉄材を横浜製鉄所で鋼板にしてパーツに分解し、製作して現地に輸送、現地でリベット接合で仕上げたものだ。

富岡製糸場に設置した、繭から糸をつむぐ繰糸機はフランスから輸入したものだが、作動させるための蒸気機関の補修部品なども横浜製鉄所で製作したと言われている。
 
横須賀製鉄所では、初期にいくつかの小型船を建造しているが、横浜製鉄所との間で器材の輸送に使った十馬力船の小型船舶用の蒸気機関はここで製作したものだ。
また、陸軍の野砲の修理などのように、各藩が輸入しながら持て余していた設備などの補修もここに持ち込まれた。
 
機械加工、工作の実力としては、大型艦船用の馬力の大きな、高圧の蒸気機関を製作する力はまだなく、やむなくフランスから輸入して何とか間に合わせていたが、比較的低圧のものであればなんとか製作できるようになっていた。富岡製糸場で使用した小型の蒸気が間もここで製作したと石川島播磨(株)の社史にある。
 
最大の課題は、製鉄所と言いながら鉄鋼を生産する能力も設備もなく、鉄材そのものは輸入に頼っていたことだった。
 
この状態はしばらく続き、幕末から鍋島藩や水戸藩、さらには幕府自身によって釜石での製鉄事業などが試みられていたが、いずれも小さな反射炉のレベルにとどまっていて、とても大型の艦船を建造するような鉄鋼を連続生産するに至らず、日本で本格的に高炉を使った鉄鋼の生産が行われるのは明治37(1904)年の八幡製鉄所での成功をまたねばならなかった。

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