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036.旧イギリス7番館 (旧バターフィールド&スワイヤ商会/戸田平和祈念館)

≪3.生糸貿易をささえた横浜の洋館・建造物032/山下地区周辺≫
*山下公園に面して建つビルは、赤いレンガが周囲の緑に映えてとても美しい。
冬の間はよく見えますが、夏になると木々の葉が繁って少し見づらくなるが残念です。
 
 
 横浜開港以来多くの外国人商人が日本にやってきて事業を始め、店を構えました。彼らがどんな店を構えたのか、当時はまだ写真が一般的ではなかったので、ほとんど残されていません。
 写真が撮られ、イラストが描かれていたとしても、大正12年に襲った関東大震災で、家が倒壊し、大きな火災が発生したこともあって、記録・資料が消失して、資料がまったく残されていないのです。もちろんその後にも、横浜の中心部が、第二次大戦中の昭和20年に何度かB29による爆撃で、街がほぼ全壊・全焼してしまったことにより、記録が灰燼に帰しています。
 なので、居留地に店を構えた外国人たちがどんな店舗、事務所を構えていたのか、ほとんど記録がないのです。彼らは、自分たちの生活様式に合わせるために、設計を、多くの場合に日本人ではなく母国の設計者に依頼しました。母国での生活を守りながら日本での生活や仕事にあわせて、どのような店構えでどのような仕事の仕方をし、日常を送っていたのか、その様子を知るすべがないのです。
記録として唯一残されているのが、1888年に作られた、横浜銅版畫「横浜諸会社諸商店之図」です。

横の面もデザインがしっかり踏襲されている。

そのことが知れる数少ない遺構が、山下公園に面して建つ赤いレンガ造りの2階建てのこの建物なのである。
 
 ■山下町/山手町――150年間住所表記が変わらない町
 開港した当時は、山下公園がありませんでしたから、この場所は海に面していました。山下町7番地、(当時は居留地7番地)のこの場所には、イギリスの貿易会社バターフィールド&スワイヤ商会が1867年に横浜に支社を設け、1971年までこの事務所を使って営業を続けていました。そして、奇跡的に関東大震災で倒壊を免れ、居留地の外国人商人の建造物として残った数少ない存在なのです。
 建物が残るためには、関東大震災だけでなく、空襲もクリアする必要がありますが、実はここはその両方を免れているのです。このうち、空襲については意図的に免れたといえるかもしれません。というのは、マッカーサー元帥が終戦後に接収・利用することを想定して、ホテル ニューグランドへの攻撃を避けた、という説がいわれているのです。この建物は、ホテル ニューグランドの隣にあります。詳細については、次回のホテル ニューグランド・ホテル(033)のところで紹介します。


 ここは、開港時に設定した番地が居留地7番地だったことから、イギリス7番館と呼ばれました。家の前に建てられている標識にも、「No.7 旧イギリス7番館」と書かれています。

家の前にある標識ポスト。「No.7  旧イギリス7番館」と書かれています。

実は、この居留地7番地という住所表記、これはいまでもそのまま通じる、「居留地7番地」は、そのまま「山下町7番地」なのです。036としてご紹介する「居留地48番地」に、外国人J.P.モルガンの商館の遺構が残されていますが、その所在地も、いまは、居留地48番地ならぬ、「山下町48番地」なのです。なので、昔の居留地の地図を見ながら、「ローマ字表記のヘボン式を生み出したあのヘボン博士が住んでいたのは居留地39番地」と聞けば、居留地の表記を山下町に代えて、山下町39番地を尋ね歩くことができるのです。横浜市さん、なんとしゃれたことをするではありませんか。 

レンガは長手と小口が一段ずつのイギリス積みです。

■関東大震災・空襲を免れた外国商館
 英国のバターフィールド&スワイヤ商会は、1816年 ジョン・スワイヤーがイギリス・リバプールで創業したスワイヤ商会が母体で、1866年に中国に進出し、R. S. バターフィールドとの共同経営で上海租界に「バターフィールド&スワイヤー社(Butterfield & Swire(B&S))」を設立、1867年(慶応3年)に 横浜支店を開業しました。現在はスワイヤー・グループとして、海運や商社事業を手広く営み、香港証券取引所に上場しています。
 この建物は、大正11年(1922年)に作られた鉄筋コンクリート2階建てで、翌年に関東大震災にあって全焼してしまいましたが、建物の構造・外装が無事だったために修復・再建、現在残っている建物の構造・外壁はその当時再建されたものです。
 建設当時の写真が、建物前に飾られていて、それを見ると、奥行きがもう少し深かったようで、左側面に車寄せと玄関があります。建物も現在のものよりもずっと大きかったようです。

建設当時の様子。規模はずっと大きく、左の側面に車寄せが見えます。

居留地にあったたくさんの外国商社・住宅の建物が全滅した中で、建設して日が浅かったためか倒壊を免れました。

 外壁の煉瓦は長手と小口を一段ずつ交互に積むイギリス積みで、イギリス系の会社が設計・施工は当たったのではないかと思います。2001年に横浜市の歴史的建造物に認定されています。
 昭和46(1971)年に、同社が日本から撤退した後、空き家になっていましたが、昭和54(1979)年に創価学会が取得し、改装して核兵器反対、平和をアピールする戸田平和記念館として開館、青年部が管理しながら展示室として利用しています。入場は無料。
 外観は、当時の状況をよく復元されていますが、内装は階段が鉄製になるなど、歴史的建造物とは異なった展示室になっており、当時の内装を期待している人にはがっかりすることになります。それでも、取り壊しという話があった中での復元で、ファサードだけでも残して復元してくれていることに感謝したい。
 山下公園から見ると、赤いレンガの色が周囲の緑に映えてとても美しい。外から見る限りは、フォトジェニックな建物です。夏には木々の緑が繁って、見えにくいのが残念です。
●所在地:横浜市中区山下町7







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