見出し画像

観音崎灯台――日本初の洋式灯台

     観音崎は太平洋から東京湾に入る入り口の高台に位置している。
     はるか洋上からも見通しがきき、灯台には絶好の位置にある。

(1) 観音崎灯台――外国から求められた灯台づくり
 
■日本にできた洋式灯台の第1号
開国とともにやって来る外国船にとって大きな問題は、流れの速い東京湾入口の狭い航路で、夜間に正確な位置を知りたいということだった。そのため灯台の建設が求められていた。
 
日本で初めて洋式灯台が建設されたのは、明治2年1月1日。浦賀水道を望む観音崎に横須賀製鉄所の技師ヴェルニーとフロランによる煉瓦と石灰の白塗装の灯台だった。
 
作られた当時の観音崎灯台は、高さ19メートルでコンクリート造りの8角形。海から40m弱の丘の上にある日本初の洋式灯台だった。
この灯台は、いま日本の灯台50選に選ばれている。
 
観音崎灯台に行くには、車で国道16号線を下ればいいが、バスならばJR横須賀駅か、京急線の汐入、横須賀中央から観音崎行きバスを利用するのが便利だ。
あるいは逆に、浦賀から観音崎行きのバスでもいい。終点の観音崎一帯は神奈川県立公園になっている。
 
灯台まで高さ40m弱、海沿いの遊歩道と山道を、30分ほど歩くことになる。途中、砲台の跡もあるので、ウォーキング気分で時間をかけて楽しむといいかもしれない。
 
1859年に横浜が開港してどっと押し寄せた外国船にとって、最大の課題は房総半島との間わずか6.9km、流れの速い東京湾の入口をどうしたら安全に抜けられるかということだった。
海底は岩が複雑な地形を生み出している。特に視界のきかない夜間が大問題で、灯台の設置が切望されていた。
 
首都防衛から言えば、この東京湾入り口の海底の地形は極秘である。明らかになれば、攻め入る側はその地形を利用してひそかに潜水艦を侵入させることができる。また、船舶を沈没させて、東京湾への出入りを防ぐことができる。戦略上の重要な情報なのである。
 
こうした中で、慶応2(1866)年、米英蘭仏各国と結んだ江戸条約(改税条約)では、観音崎・剣崎(三浦半島)、野島崎(房総半島)など、全国8か所への灯台設置が条件にされた。
便利にすれば侵入されやすい、不便のままにすれば侵入を防げるが、交易は伸びない。幕府内の議論にはまだそうしたジレンマもあったが、内向き志向の古い基準を捨てる世界の流れは止められなかった。
 
おりから幕府は、横須賀製鉄所を建設中で、建築資材としてレンガを作っており、横須賀製鉄所のヴェルニーやフロランによって、このレンガを使用した洋式灯台の設置が進められた。
 
こうして、最初に作られたのが、東京湾入り口の両側に位置する観音崎灯台(1869年)と、野島崎灯台(1870年)だった。

現在の灯台は3代目で大正14(1925)年に作られたコンクリート製。
現在の光源とレンズ。4等フレネルレンズで、群閃白光。
7.5秒ごとに閃光し、77,000燭光の明るさで光達距離は19カイリ(約35km)。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?