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Y4-1. 横須賀製鉄所-造船所-海軍工廠――150年をへてなお現役で稼働する石造りドック

                 ↑いまは米軍基地内にある2号ドック

■貿易港横浜を支えた修船施設
いまは、米海軍横須賀基地内にあるが、対岸のヴェルニー公園や軍港めぐりクルーズから日本最古の石づくりドックを見ることができるのだ。
1、2、3号ドックは建造以来140年を経過し、現在もなお、現役で稼働を続ける。
 
日本の造船・機械加工技術の発展に大きく貢献した横須賀製鉄所に日本の造船・機械加工技術の原点を訪ねる。
 
京急線の快速特急で品川から約1時間、「汐入」駅を下車して国道16号線を右に行き、200メートルほど進むと本町2丁目の交差点がある。
この交差点の正面に米海軍横須賀基地のゲートがある。
 
横須賀製鉄所は、明治初めに横須賀村の三賀保、白仙、内浦にまたがる約244,600㎡に、山を崩して海面を埋め立て造成・建設された。
 
「製鉄所」の名は、鉄材を加工する工場という意味で、ねらいはフランスのツーロン港をモデルにした軍港と造船・修船施設の建設だった。
 
当時の敷地は、いま米軍に接収されていて入れないが、年に何度かある開放日は、このゲートから入って見学することができる。
 
1859年の横浜開港以来、太平洋の荒波を越えてたどり着いた外国船は、船体が傷んで修理の必要なものも多く、修船施設の整備が要望されていた。
 
勘定奉行小栗上野介の提案をうけて、慶応元(1865)年9月27日横須賀に修船と造船施設が作られることになり、ここから横須賀の町は大きく変貌していく。
 
貿易港・横浜に対する修理施設・横須賀は、フランスの貿易港マルセイユに対するツーロンと同じ関係である。

明治元年~9年の横須賀製鉄所。元年に工事中だった1号ドックは完成し、7年に工事がはじまった3号ドックも完成。施設はほぼ、出来上がっている。(「横須賀市自然・人文博物館」)
本町2丁目交差点。国道16号線に面した米海軍基地ゲート。

■自前ですべてをつくる総合工場
工事は、フランス人も驚くほどの急ピッチで進められ、造船台・修船台とともに、明治4(1871)年には石造り、全長137メートルの1号ドックが完成した。
 
当時は、機械工場などが市中にないために、造船に必要な機材をすべて内作せざるをえず、敷地内には、鋳造工場、錬鉄(鍛冶)工場、製缶工場、製綱工場、製帆工場、型工場、船具・滑車・木工所などがある総合工場だった。
 
ヴェルニー記念館に置かれているスチームハンマーも錬鉄工場で使われていたものだ。
手始めに、十馬力船などの小型の蒸気船を作った。横浜製鉄所との間で機材の輸送に使う輸送船さえ自前で作らねばならない状態だったのである。
 
1865年に江戸幕府が始めた横須賀製鉄所は、1868年に明治新政府に引き継がれる。
幕府の奉行を務めた小栗上野介が新政府によって斬首される一方、製鉄所は明治(1869)年には大蔵省の管轄に変わり、翌3年には新設された工部省の管轄に。4年に横須賀造船所と改名し、やがて鎮守府が横須賀に置かれると、造船所は海軍の主力工廠になっていく。
 
明治時代初期には、民間の造船業が未発達なために、内国船や外国艦船の建造・修理なども行い、明治3年には、206トン、40馬力、積石約500石、乗客数100名の木製汽船「弘明丸」(後に青函連絡船に使われた)を完成させるなどしたが、海軍省の所属になってから戦艦づくりに傾斜する。
 
列強の侵略を防ぐための富国強兵政策は焦眉の急だった。
冷戦時代なら考えられないが、いまはgoogle earthで基地内の地図が誰でも見られる。
当時の施設の位置をみたのが以下の図だ。

明治9年の横須賀製鉄所の位置。工場がほぼ完成した後、横須賀製鉄所は、その後海軍の直属となって海軍工廠として終戦を迎え、現在は、米海軍の基地として使用されている。年に何度か開催される開放日に、ドックを間近に見ることができる。(下写真は、クリスチャン・ポラック氏蔵)

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