【もしヒラ】もし読書好きのヒラの会社員が、人との付き合いで寛容な心のことを考えたら

弟子:「師匠、人は人に迷惑をかけるものだと聞きました。それに対して、仏教では『他人に迷惑をかけるな』ではなく、『他人からの迷惑を耐え忍べ』と教えているようです。しかし、迷惑をかけられた者が、そんなに寛容になれるのでしょうか?」

師匠:「よくぞ聞いてくれた。確かに、仏教にはそういう教えがあります。他人に迷惑をかけられても、それを許し、寛容に受け入れることが大切だとされています。だが、実際には感情が伴うため、常に寛容でいられるとは限らない。仏教もまた、人間には誰にでも『いやな人』がいることを認めています。しかし、重要なのはその感情を理解しつつ、少しずつ寛容さを持つ努力をすることだ。完璧でなくてもいい。少しずつ他者に対して理解と慈悲を持つことを目指すことが、その思考に近づく一歩となる。自分自身の心を見つめ、成長することが大切なのだ。ひろさちや氏の本に書いているぞ。」

弟子:「師匠、それでも、人に対して『この人のこれは嫌だ』と思うと、その人全体を否定してしまうことがあります。とはいえ、人には自分にとって好意的なところもあれば嫌悪感を生むところもあるという側面があることを理解することが大事ですよね。」

師匠:「まさにその通りだ、弟子よ。一人の人間には多くの側面があり、すべてを一面的に捉えるのは偏った見方だ。『名言・ことわざにならうひろさちやのゆうゆう人生論』にあるように、『私たちは、自分の行動様式を基準にして、他人を批判することをやめましょう。スープを深い壺で飲むのが正しいのではありません。皿で飲むのが正しいのでもありません。どちらだっていいのです。どちらも単なる行動様式にすぎないのです。』という言葉を思い出してほしい。それぞれの生き方があることを理解し、裁くのは避けたほうがいい。『この人を裁くことのできる人は、仏か神である、と考えて神仏にお任せすればいいのです。そして、わたしは裁かないでいる。わたしが裁くのは神や仏に対する越権行為であると考えて、引っ込んでいる。それがいちばんいい態度です。』という言葉もある。だからこそ、他人を裁くのではなく、自分自身がどのように他者と向き合うかを考えていこう。」

弟子:「師匠、確かにその通りです。自分の基準で他人を裁いてしまうことが多いです。『べき』という言葉は、それを形容している気がしています。自分が正しいと信じている基準を他人に押し付けてしまいがちです。でも、それぞれの人にはその人の生き方があることを理解し、裁かずに受け入れることが大切ですね。」

師匠:「その通りだ、弟子よ。人を一面だけで判断するのではなく、多面的に見ることを心がけるんだ。少しずつ寛容さを持ち、他者を理解しようとする姿勢が、成長へとつながる。努力を続けることが大事だ。」

弟子の友だちへの語り

弟子:「ねえ、最近師匠から大切な教えを受けたんだ。仏教の教えでは、人は誰しも他人に迷惑をかけるもので、その迷惑を耐え忍ぶことが大切だという考えがあるんだ。でも、実際には感情が絡んで、許すのは簡単じゃないことも多いよね。さらに、人に対して『この人のこれは嫌だ』と思うと、その人全体を否定してしまうことがあるよね。でも、師匠が教えてくれたんだ。人には自分にとって好意的なところもあれば嫌悪感を生むところもあるという側面があることを理解することが大事だって。」

友だち:「確かに、嫌な部分を見て全体を否定することが多いかも。」

弟子:「そうなんだ。でも、師匠が教えてくれた『私たちは、自分の行動様式を基準にして、他人を批判することをやめましょう。』という言葉を覚えておきたい。どんな行動も、それぞれの人にとってはただの一つの行動様式であって、どちらが正しいとか間違っているとかはないんだ。だから、他人を裁くのは避け、神や仏にお任せするのが一番いいんだって。自分がどう向き合うかが大切なんだ。」

友だち:「なるほど。一面だけで全体を判断しないことが大切なんだね。」

弟子:「そうだね。少しずつ寛容さを持ち、他者を多面的に見ることで、理解と慈悲の心を育てていこうよ。」



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