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田中角栄の凄さ

近年田中角栄(1918~1993)が再評価されている。生誕105年になるがロッキード事件の被告となり刑事被告人のまま亡くなったため叙勲もされていない。正直金権におぼれた犯罪者という評価だった。しかし新潟に行った際、特に農村部は今でも角栄への忠誠心が強く批判は憚られる空気であった。

角栄といえば特筆されることは年功を飛び越えて異例の出世を果たしたことだろう。三角大福中ともいわれたがこの中でコンピュータ付きブルドーザーよろしく政策をやり遂げる実行力、金力にあらずんば金力の戦いよろしく子分を増やす金権政治で5人の中で第一に総理大臣にのし上がった。三角大福中の年齢を見ると

三木武夫(1907年)
田中角栄(1918年)
大平正芳(1910年)
福田赳夫(1905年)
中曽根康弘(1918年)

田中角栄と中曽根康弘が同年で大正7年。明治生まれが政界の中心だった時代で大正生まれというだけで清新さがあった。実際1978年の総裁選に中曽根が出馬の際、「いつまでも大正生まれのお年寄りに任せていいのでしょうか」と切り出していた記憶。中曽根はこの中に張っているがおまけの印象も強い一方、田中は福田とは13歳も離れているとはいえ同格に大蔵大臣や幹事長といったポストを争っていた。

なぜこのような出世が可能だったか。一つは当選年だろう。初当選は1947年で日本国憲法制定後初の選挙。ここがミソで5人の中で1937年の帝国議会経験者の三木に次いで当選が古い。佐藤栄作や池田勇人もこの2年後が初当選である。さらに戦前からの政界の有力者が公職追放で逼塞を余儀なくされていた。公職追放された官僚・議員が復帰するのは1952年の事で既に角栄は当選4回と当時の混沌とした政界事情を見れば中堅格だった。また当時建設委員会に所属しインフラ整備などの法律に提案者として関わったことも大きかった。戦争の影響色濃く何よりも都市計画が重要視されたころ。建築士法、道路法も角栄が中心的に制定、改正されたものだ。 つづく。


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