ちゃんこ・巡業の話

佐渡ケ嶽部屋や式秀部屋で古い肉や米を強要されたという話があったが昔の相撲部屋のちゃんこは部屋によって大きく異なった。今の相撲会社のように一律で養成費が入り安定した経営ができる訳ではなかった。

相撲部屋の主な収入は本場所ではなく巡業によるもので各部屋の巡業の収益が大半。年2場所の時代、旅暮らしの大昔の巡業が相撲の原点でもある。全員が行動をともにする現在の大合併ではなく、部屋や一門別の小人数で日本中を回った。一門別が基本だが小部屋の場合、大巡業からも外され、鄙びた場所を練り歩いて食いつなぐ文字通りの小相撲ばかり。戦後の食糧難時代は入場料として米や野菜が差し入れられ、猛稽古を披露した。初代若乃花はこの時に若い衆にひたすら胸を出しちぎり捨てる相撲から「呼び戻し」の大技を考案とした。この時代巡業が「主」で本場所が「従」であった。本場所はあくまで試験の場で、力量をアピールすることで巡業の交渉をスムーズにするためだったともいわれる。そのため明治から昭和戦前にかけての力士の待遇改善の要求には、巡業収入の配分についてが大きく掲げられた。

巡業によってはさながら見世物のサーカスだったともいわれる。チャンコといってもロクに食材もなくすいとん、べちゃべちゃの麦飯というのが多かったようだ。


石井代蔵著の土俵の修羅や親方列伝には苦労話が山のようにある。

出羽海部屋では朝野の名士が常陸山会に連なり、稽古見物の客さんを迎えて豪勢なチャンコが始まっていた。河岸から取り寄せた活きのいい魚や鶏をふんだんに使って、チャンコははじめて常陸山によって美食に生まれ変わった。そんな出羽海の繁栄ぶりを横目に本場所中とその前後、回向院広場の協会炊き出しで息をつく貧乏部屋があった。チャンコはおろか米の飯にさえありつければ文句はないという貧しさ。食い物の恨みだけに出羽海憎しの思いは肚にしみ込んだ。

食えない者同士3人が集まった。湊川、振分、立浪の3人。いずれの部屋も十両関取だけが看板でうらぶれた巡業が続いた。行く先々の土地で借金を膨らまし、東京に帰り着くと御贔屓先に駆け込んでご祝儀にありつく。どんどん地方に送り返して借金清算。質屋に入れていた羽織や着物、ありとあらゆる質草を出し入れする火の車がくる年もくる年も続いた。」

二所ノ関から喧嘩別れし巡業組合からも見放され、若乃花だけが看板の花籠が山間僻地を巡業してまわる。夜は若乃花が旅館に、師匠が公民館に泊まり「それは困る」と師弟間で譲り合う。相撲場で若乃花1人が若い衆を相手に荒稽古を見せる日々。いつ潰れても誰も驚かない。

相撲部屋の経営が変わったのは、昭和32年に近代化として大改革を行ったときであるという。この時定年制、年6場所制など現代に続く規則が確立されたが、巡業も一門別など小規模なものはなくなり、協会が管理するものになった。当時は全力士参加の巡業は「準場所」と呼ばれ本場所に近い扱いだったがそれも次第に減りなくなった。これ以降の巡業は「遠足」とも揶揄されるが、それも苦労のない巡業へのアンチテーゼなのか。

チャンコに留まらず戦前の相撲界の苦労は計り知れない。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?