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宗教家日誌13
おはようございます。今日は7月14日。小雨。
教組年祭まで、あと561日。
お断り
この連載記事は単なる私の日誌なので
皆さんとっては全く為にならないし
面白くない内容だと思います。
なので、適当にお付き合いください。
昨日は1日休んだ。なんか身体が重いのだ。
こういう時は無理せず休むことにしている。
今朝は身体が軽いので良かった。
気持ちも軽くなる。
気になっていた場所に早速掃除機をかけた。
見事に綺麗になったので、綺麗な心で今書いている。
つもり。
が、今日は書くことが浮かばない。
書いては消して、書いては消してを繰り返している。
この日誌を書くのも私にとっては教祖年祭活動だ。
しかし、今日はなにも浮かばない。やめるか。と心が傾く。
ちなみに、教祖と書いて私達は「おやさま」とお呼びしている。
ご存知だろうか。
さっき、朝つとめを勤めたが、必ず神様に言う言葉がある。
「今日も一同と共に元気に朝が迎えられましたこと
まずは御礼申し上げます。これよりおつとめを勤めさせて頂きます。
どうぞお受け取り頂きますようお願い申し上げます」だ。
次も言う内容は決まっている。
「只今おつとめを終える事ができました。ありがとうございます。
今日は雨という予報を聞いております。特に外を出歩く方々をお守りくださいますようお願い申し上げます。又、教祖年祭までに定めたことを、只の半歩でも進ませて頂けますよう」だ。
※教会によっては、まず世界の治まりを願うところもある。
次に教祖のところへ参拝だが、言う内容は上と同じ。
最後に教会の歴代会長様、御先祖様方に今日の予定を申し上げるのだ。
これは私の場合の話。
コロナ前までは、朝つとめには6人前後の参拝の方がいた。
多い時は10人を超すことも。
朝つとめが終わると「ひとこと話」をしたものだ。
話が好きな訳ではないが、せっかく参拝に来た人を手ぶらで返すのは申し訳なかったのだ。
へたな話でも繰り返していると、いつの間にか
人前でお話をする事には抵抗がなくなった。
全ては積み重ねだと思う。
その当時よくお話ししたのは
「運命を良くするにはね
良い話を聞く
良い心を使う
良い行いをする。
これです」と。
「運命を悪くする方法はね
悪い話を聞く
悪い心を使う
悪い行いをする
そうすると運命はダダ下がりになるよ」と。
私の場合、こうして人にお話をすることで
自分を戒めているのだ。
柱に向かって話はできないので
人に向かって話をする。
が、結果、人に話たことは全て自分にあることなので
人をたすけたら自分がたすかるのです。
自分がなにをしたのか、これが我が身にかえっているだけ。
良いことしたなら良い結果がでるし、悪いことしたら悪い結果が出る。
自分から出したものが自分に返る。これが天の理。
もう書く事ないので終わり。
お付き合いありがとうございました。
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