数十年の時を経ても社会は変わっていなかったのかもしれない

最近ふと、ZARDの「LOVE 〜眠れずに君の横顔ずっと見ていた〜」という曲を聴きました。
子供のころ、ZARDの曲が好きでよく聴いていました。
ZARDの名曲は数多あれど、この曲はあまり有名ではありません。
どちらかというとマイナーな曲ですが、なぜか自分の心にずっと残っていて、久しぶりに無性に聴きたくなったんです。

この曲の冒頭に、
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明日も一日 謙虚を装って
他人に調子を合わせ
"バランスが良い" と誉められては 自分を見失う
景気のいい話ばかり求め
好成績を上げたとしても
用が終われば 捨てられる ボロボロのダンボール
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という歌詞があるんです。

幼いころは、ほとんどの曲の歌詞の意味なんてちゃんと理解していませんでした。
メロディーが好きだったり、普段の会話では聞かない言葉やフレーズに触れることで、お手軽な「非日常感」を味わえるのが楽しい、どの曲もそんな感じで聴いていました。
でも大人になった今改めて聴いてみると、この歌詞の意味が手に取るように分かることに気づきました。

自分がここ数年感じていた人生の悩みというか、今の生き方に対する違和感を、ピッタリ言葉にしてくれたような感じがするんですよ。

この曲は、1996年にリリースされたZARDのアルバム「TODAY IS ANOTHER DAY」に収録されていた曲の一つで、この曲の歌詞もZARDのボーカルである坂井泉水さんが書かれたものでした。
1996年って、バブル崩壊後とはいえ、まだ日本にバブルの残り香があって、今みたいに非正規雇用や長時間労働が問題になる前の時代ですよね。
にも拘わらず、2024年時点の多くの人が感じているであろう、世の中の不合理というか矛盾がこの歌詞に表現されている感じがします。

何と言うか、この歌詞で表現されていることの「具体例」がありありと思い浮かぶんです。

どんな要求に対しても、「出来ます」「やります」「頑張ります」と言って対応することが求められ、Noとは言えない空気が支配している。
どんなに頑張っても、どんなに誉められても、「まだまだです」「もっと上を目指します」と言って、謙虚に振る舞うことが模範的である。
何にでも「数値化」「定量化」が求められ、分かりやすい数値で成果を上げることを求められる。
その実、本当にそれに意味があるのか、自分が喜びを感じているかが分からなくなっている。
「社員は家族です」「人材ではなく人財です」といった耳障りの良い言葉で飼い馴らされ、組織の思い通りにならなくなったら、干される。
「味方」のフリをしていた人たちは、自分が困った時に慰めてくれる人でもなければ、寄り添ってくれる人でも、一緒に悩んでくれる人でも、前を向く勇気を与えてくれる人でもなかった。

こんな感じでしょうか。

30年近く前の曲で歌われている憂いが、現代を生きる僕たちの悩みと変わらないなんて、この30年間で社会は何も変わらなかったということなのでしょうか。
もしかして、この先もこの「生きづらさ」は変わらないんでしょうか。
そんな無力感を感じてしまうと同時に、当時20代という若さで、社会を支配する根深い闇の正体に気づいていたZARDの坂井泉水さんが、とても優れた感性の持ち主だったことを、改めて感じます。

坂井泉水さんは、2007年に40歳という若さで亡くなりました。
まだ生きていらっしゃったら、今の時代をどう感じられていたんだろう。

30年という時を経ても尚、社会を覆う生きづらさというか、息苦しさがなくなっていないことに絶望しかけたのと同時に、それを感じていたのは、自分だけではなかったのだという安心感を、30年の時を超えて坂井泉水さんに与えてもらった気がします。

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