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《追分馬子唄》~馬子唄に仕立てた追分宿油屋の追分節(長野県北佐久郡軽井沢町)

《追分馬子唄》という楽曲名を聞いたとき、最初はおや?と思ってしまう方もいると思います。それは「追分節」の源流は碓氷峠を越え行く博労の歌った馬方節・馬子唄であるという説がよく知られているので、「追分節」と「馬子唄」がダブったような曲名と感じられるからだと思います。
「追分節」とは、民謡の王様と呼ばれる北海道民謡《江差追分》を始めとして、信州の中山道と北国街道の分岐点である追分宿(北佐久郡軽井沢町追分)で唄われたものであるといわれ、その元は上記のとおり、「馬方節」「夜曳き唄」等と呼ばれる「博労節」であったようです。こうした唄が追分宿に伝わって、酒席で唄われ、「追分節」と呼ばれるようになったといいます。


唄の背景

追分節から馬子唄へ
「追分節」研究はいくつかありますが、詳しく解説されているものに以下の書籍があります。
竹内 勉 「追分節—信濃から江差まで」1980年
     「民謡地図③ 追分と宿場・港の女たち」2003年
小宮山 利三「軽井沢三宿の生んだ追分節考」1985年

追分宿は浅間根越の三宿(軽井沢宿、沓掛宿、追分宿)の中でもっとも賑わった宿であったそうです。追分宿は本陣1軒、脇本陣2軒が設けられ、江戸期には旅籠71軒、茶屋18軒、商店28軒を数えたそうです。
各旅籠には飯盛女も置かれ、追分宿で200人以上いたといいます。

現在の旧中山道追分宿の景色

〽︎追分一丁二丁三丁四丁五丁ある宿で
 中の三丁がままならぬ
と歌われたように、中ほどに脇本陣、油屋などがあり、大変賑わったそうです。

飯盛女とは飯売女、宿場女郎ともいわれ、もとは文字通り、旅客に飯を売ったり、給仕したりしましたが、やがて芸を披露したり、私娼として働いていたりするようになったようです。そうした飯盛女がたくさんいた追分宿のお座敷では、近隣の馬方節・馬子唄が歌われ、やがて三味線の伴奏をつけて歌われるようになったといいます。中でも三下りによるものが、粋に聞こえ、「馬方節」に「三下り」の調子がつけられたということで「馬方三下り」とよばれました。やがて、追分宿で歌われた追分名物の唄「追分節」として流行ったようです。

こうした唄が歌われた華やかな追分の宿場も徐々に寂れていきます。明治22年(1889年)、信越線開通に伴い、追分宿の衰退により遊郭を岩村田(長野県佐久市)に集団移転しました。軽井沢町のもとの追分宿には、桝形の茶屋として「つがるや(津軽屋)」と旅館として営業を続けた脇本陣の油屋が残っただけであったのだそうです。

一方、岩村田遊郭も衰退していきますが、せっかくの追分宿名物の「追分節」を残そうとして、岩村田芸妓がレコード吹込みをしました。このレコード化の時に岩村田芸妓が追分宿の《追分節》を歌うにあたり、信濃を代表する追分節というようなネーミングで《正調信濃追分》としたようです。

追分節の分類
ところで、追分宿で唄われてきた「追分節」のメロディというのは、これ1曲というものではなかったようです。これまでの研究書、解説書をみると、例えば、小宮山は「馬子唄調系追分節」と「座敷唄調系追分節」に分類されています。さらに、小宮山の分類をもとに、現在でも耳にすることができる節回しを中心に分類してみます。

◇追分宿永楽屋系追分節
軽井沢町追分宿、永楽屋の飯盛女、おさの(天保7年(1836)~昭和2年(1927))が伝えたもの。
◇岩村田遊廓復興系追分節
昭和20年代(1940年代)に岩村田遊廓で復興のもととなった、小諸市御影の渡辺善吾が教えたもの。渡辺善吾は軽井沢町追分宿の永楽屋のおさのから習ったといいます。
◇追分宿油屋系追分節
追分宿の脇本陣、油屋主人の小川誠一郎(明治34年(1901)~平成元年(1989))が伝えてきたもの。
◇追分宿保存会系追分節
岩村田集団移転後の追分宿の旧脇本陣、油屋の主人、小川誠一郎のお連れ合い、明治35年(1902年)生まれの小川よしが伝えていたもの。
◇小室節保存会系追分節
小諸市の「小室節保存会(旧小室節愛好会)」が伝えているもの。
◇普及調系追分節
現在、民謡歌手が歌うようになったもの。

このなかの追分宿油屋系追分節が《追分馬子唄》と呼ばれるようになっていきます。

現在の旧中山道追分宿の油屋
(もとの油屋は真向かいに脇本陣として存在していた)

追分宿の脇本陣、油屋では、飯盛女であったおのぶ(弘化3年(1846)~大正11年(1922))が伝えていたものを小川誠一郎氏が習ったものといいます。小川誠一郎がおのぶに習ったころは「馬子唄」などとは言わずに「追分節」と言っていたそうです。また、もともとはあしらいの三味線があり、〽︎来たよで戸が鳴る 出てみりゃ風だよ の長バヤシも入れていたようです。
その後、岩村田で《正調信濃追分》という楽曲名で吹き込まれた「追分節」は拍節的なものですが、それに対して小川誠一郎は三味線を外し、ハヤシ詞も「ハイーハイ」の掛声にし、節も伸ばして非拍節的な馬方節調に整えたそうです。また、伴奏としては馬の蹄の音をパカパカと入れるようになりました。お座敷でも実際に徳利の袴や碗を4つ伏せて、綾にかけるように打っていたとのことで、単に蹄の擬音ということではないようです。

ところで、昭和28年(1953)にはNHKのど自慢コンクール長野県大会のおりには、岩村田芸妓の簾田じょうが優勝、小川氏は2位でした。簾田の歌う岩村田調が《信濃追分》として広く知られるようになります。一方、小川誠一郎が歌う《追分節》も、舞台や放送に乗るようになりますが、追分宿で歌われていた方を昭和30年代に《追分馬子唄》と改名させられたのだそうです。

この《追分馬子唄》の歌い方については、追分宿の「追分節」の元唄のように、次の歌詞で歌い出されます。
〽︎追分(4)
 桝形の茶屋で(7+1)
 ホロと泣いたは(7)
 忘らりょか(5)
という詞については、竹内によれば、1句目は3音が省略されており、本来は「嫌な追分」という7音になるべきところを、「嫌な」という語感のため省略されたといいます[竹内 2018:376 等]。しかし、昔からこの歌詞だけは1句目を4音で歌っていたということで、2番以降は、通常の7775調の歌詞で歌われます。

追分馬子唄と追分節、馬方節との関係
小川誠一郎が伝える《追分馬子唄》はもとは追分宿油屋のおのぶが伝えていた「追分節」ではありましたが、いわゆる追分宿名物の「追分節」、その母体となった「馬方節・馬子唄」の特徴の類似点と相違点に気付かされます。
①   歌い出しを高く歌う
馬方節・馬子唄では割合低めに歌い出すのに対し、《追分馬子唄》や「追分節」は最高音で華やかに歌い出すのが特徴的です。もとの「馬方節」や「馬方三下り」への過渡期の唄がどうであったかは分かりませんが、大変印象的です。
②   歌い出しの3文字で息継ぎして切る
馬方節・馬子唄の特徴として第1句目の3文字、例えば「碓氷峠の」であれば「碓氷~」でブレスをします。当地域では小諸市の《小室節》やその旧調の《小諸馬子唄》の代表的な歌詞「小諸出てみりゃ」であれば、「小諸~」でブレスします。
群馬県側の松井田市安中の《坂本馬子唄》の「一に追分」では、「一に~」でブレスします。
では《追分馬子唄》ではどうでしょうか。歌詞「浅間山さん」では、「浅間~」で切るので、この馬方節・馬子唄の特徴となっています。ただし、歌い出しの音程は最高音で声を張るので、馬方節・馬子唄よりはさすがに「追分節」の特徴を保っています。
③   第3句目を最高音で歌い上げる
馬方節・馬子唄、追分節、《追分馬子唄》ともに、最高音で声を張り、クライマックスを形作っているかのように歌い上げます。

この特徴を現在聴くことのできる各地の「追分節」等と比べてみます。
① の高い歌い出しについては、近隣の《親沢追分》(南佐久郡小海町)では低めから一気に最高音にもっていくので、追分宿の特徴かも知れないです。
② 今日聴くことのできる有名な《江差追分》(北海道桧山郡江差町)の本唄では、
〽︎忍路高島 及びもないが せめて歌棄 磯谷まで
と比べると、「忍路~」でブレスする3文字切れになっています。
同じ江差に伝わる《江差三下り》では、
〽︎江差港の 弁天様は わしがためには 守り神
と比べると、同様に「江差~」でブレスする3文字切れになっています。
③  三句目の最高音で声を張るのは大変多くみられます。《江差追分》では、この曲の最大の聞かせどころが「せめて~」の部分です。後半でクライマックスを位置づける唄の構成となっているようなところが、「追分節」の特徴かもしれません。


音楽的特徴

拍子
非拍節

音組織/音域
民謡音階/1オクターブと3度

追分馬子唄の音域:1オクターブと3度

歌詞の構造 
基本的な詞型は7775調。
(  )内は掛声。片仮名部分以外が基本的な歌詞部分。
〽︎浅間山さん 
 エーなぜ焼けしゃんすヨ
 裾に三宿
 エー持ちながら
 (ハイーハイー)

※ただし、1番だけは3音欠損で歌われます。
〽︎追分桝形の
 エー茶屋でヨ
 ホロと泣いたは
 アリャ忘らりょか
 (ハイーハイー)

演奏形態

掛声
三味線
馬の蹄(徳利の袴、碗)
 ※4つの徳利の袴等を伏せて綾にかけて音を出します。

下記には《追分馬子唄》の楽譜を掲載しました。

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