《相木馬方節》~追分節を練り上げた相木の里の馬方節(長野県南佐久郡北相木村・南相木村)
南佐久郡の東南部にある山村、北相木村は、峠を越えれば群馬県上野村になります。千曲川の支流、相木川沿いに集落が点在する東西に長い土地です。また、その北相木村の山嶺の南に位置するのが南相木村は、やはり群馬県にも接する南佐久郡の東南端に位置する山村です。この相木の地に《馬方節》が伝わっています。
唄の背景
上州との交易が盛んであった山村
相木は佐久郡大井荘(現佐久市岩村田)の大井氏の重臣であった相木氏が治めていました。阿江木氏ともいい、小県郡依田荘(現上田市丸子町)の発祥。武田信玄の信濃侵攻の時には、大井氏から離れ、相木城(現南相木村)を拠点とした相木昌朝がよく知られています。
南佐久では、古くから十石峠越えの十石街道があり、相木からも栂峠を越えて十国街道経由で上州との交易が盛んであったといいます。この馬方節も土地の言い伝えでは、関東地方に出稼ぎに行った馬方によって歌われたものといいます。
この唄の歌詞は下記のとおりです。
〽︎アー馬方さん どこで夜がエ
エー明けたヨ(ハイハイ)
アー山中峠の
エー七曲がり
[長バヤシ]
ハ行くよだ来るよだ 三里も先から 面影さすよだ オオサドンドン
詞型は7775調の甚句系ですが、節の冒頭や切れ目にアーとかエーを補って歌われます。また、追分宿(現北佐久郡軽井沢町追分)名物の「追分節」と同様の長バヤシが付きます。また「追分節」の特徴の1つ「オオサドンドン」をハヤシの最後に付けるのも大きな特徴です。
相木では北相木村、南相木村の各地で歌われていましたが、戦後はやがて廃れていきました。1960年代になり、南相木村の依田武勝が、古老の唄を聴き、歌詞を整えて《相木馬方節》として復興させ、レコード吹込み等や保存会活動を通して、普及につとめました。また。小沢千月、原田直之といった民謡歌手による演唱もあります。
追分節を母体とする馬方節
《相木馬方節》の最大の特徴は、追分宿の《追分節》と同様の「オオサドンドン」を伴う長バヤシです。相木の馬方節とはどのような関係があったのでしょうか。
小宮山利三著「追分節考」によれば、南佐久の最南端の千曲川源流地域(川上村・南牧村・北牧村・小海村・南相木村・北相木村)六ヶ村の中心地は、千曲川西側の北牧村西馬流(現南佐久郡小海町)と東側の小海村土村(現同郡小海町)であったといいます[小宮山1985:312-314]。この辺りは川上方面と相木方面の街道合流点であり、北牧の花街は南佐久の人々で賑わったようです。さらに小宮山によれば、この北牧の地で「追分節」を歌っていたようだと指摘しています。また、同じ小海町では、親沢地区に追分宿直伝の「追分節」が《親沢追分》として歌われてきましたので、同じような「追分節」が北牧あたりの花街でも歌われたものと思われます。
「追分節」という歌は「馬方節」に三下り調子の三味線伴奏を付けた「馬方三下り」であるとされていますが、追分節の確立期、あるいは地域によって「追分節」と「馬方節」が混同していた時期がありました。一般に「馬方節」は馬を曳く際に朗々と歌うもので無拍節の場合が多く、一方「追分節」はお座敷で三味線伴奏に乗って歌われるので2拍子の拍節的なものが多いです。
北相木の古老の歌った録音を聴くと、「追分節」のような拍節を感じさせるものでした。旋律の動きも《親沢追分》とも似た雰囲気があります。
こうして考えると、栂峠、十国峠越えに交易のあった関東の馬方節を伝えたという口伝とともに、現小海町付近の花街で歌われたと思われる追分宿名物の《追分節》を覚えて伝えた可能性もあるのではないかと考えられます。
音楽的特徴
拍子
南相木調:無拍節
北相木調:2拍子
音組織/音域
[北相木調]
民謡音階/1オクターブ
[南相木調]
民謡音階/1オクターブと5度
歌詞の構造
1番のみ第1句目が3音省略で歌われていますが、基本的には7775調の甚句系の詞型です。唄の各番の終わりには《信濃追分》等と共通する長バヤシが付きます。
【1番】3音省略
〽︎アー馬方さん どこで夜がエ
エー明けたヨ(ハイハイ)
アー山中峠の
エー七曲がり
[長バヤシ]
ア行くよだ来るよだ 三里も先から
面影さすよだ オオサドンドン
〽︎アー好きな馬方 やめろじゃエ
エーないがヨ(ハイハイ)
アーやめておくれよエ
エー茶碗酒
[長バヤシ]
アあまめがそこ行った 気持ちも分かるよ
やめろじゃないかい オオサドンドン
演奏形態
歌
唄バヤシ
※復興された《相木馬方節》では尺八、馬齢、馬の蹄音等を装飾的に入れて歌われています。
以下には、《相木馬方節》の北相木調と南相木調の2種の楽譜を掲載しました。
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