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鑑賞者側からキュレーションをする。「ハードコアな鑑賞」って何?から考える現代アート入門

あけましておめでとうございます。
いやー、2017年ですね。まだなんの実感もないですが、、やっと2016という数字に慣れてきたと思ったらもう2017ですよ。油断してしまうとすぐに来年になってしまうので今年は気合いを入れて色々な形にしていこうと思います。とりあえず、後手後手になってしまっている展示をします。

(ランニングがてらに撮った初日の出)




さて、前回ナラティブについての説明しました。もう一度簡単にナラティブについて説明すると、誰でもないあなただけの経験(物語)のことです。(詳しくは前回の記事をご参照ください。)前回はどちらかというと制作者側から考えるナラティブという形だったので、今回は僕が実践している鑑賞者側からナラティブを引き出していく方法、ハードコアな鑑賞について説明していきます。



【ナラティブが生まれやすい条件とは?】

まずナラティブを自然に引き出しやすい状況について説明します。ナラティブとは、誰でもない私の物語のことです。つまり、主観的であることが重要です。そこに、「いつ」「どこで」「何を」「どのように」「誰と」が加わるとそれはナラティブなものになります。

鑑賞に関していえば、演劇、ライブ、パフォーマンスなど公演型のものは比較的ナラティブが立ち上がりやすいです。それは一回性の性質が強い。つまり、複数公演あったとしても全く同じものが上演されることがない、会場のどの位置で見たか、鑑賞しているお客さんのリアクションはどんな感じであったかなど、「いつ」「どこで」「誰と」「何を」「なぜ」「どのように」の要素が自然に入っているからです。

以前、地点の「光のない」という公演を観劇した時、ただでさえ取っ付きにくい難解な演劇なのに僕の斜め前に座ってる中年不倫カップルが上演中にイチャイチャしていて、それを視界に入れながら演劇を見るという地獄のような体験をしたことがあります。地点の「光のない」を見たことがある人でも全く同じ経験をした人はいないと思います。つまり、ナラティブなものということです。


【展示の鑑賞をナラティブにするには?】

基本的に美術の展覧会はいつ来ても同じものが観れるように作られています。その理由の多くは純粋に作品のみを見せたいからです。つまり、展覧会という形式は基本的には一回性を無いものとして観るシステムといえます。それをあえて一回性のものとしてナラティブに鑑賞する為には、先ほど説明したように主観的であり、そこに「いつ」「どこで」「誰と」「何を」「なぜ」「どのように」を鑑賞の中に含ませていきます。



「いつ」

どの時間帯に鑑賞するかによっても作品の見え方は当然のように変わります。閉館ギリギリに駆け足で観るのと開館してすぐの誰もいない状態で観るのとでは心理的にも違って見えます。


「どこで」

大概の場合、鑑賞をスタートするのは展覧会の会場に入ってからですが、それをズラして家を出た時点から鑑賞をスタートとさせます。移動している中で見えてくる風景や目にとまったモノとを会場の中の作品とのつながりを探してみます。作家がコントロールして作ったもの以外も鑑賞の重要な要素として組み込むということです。


「誰と」

自分のペースで一人で展示を周るのと、誰かと一緒に周るのでは全然条件が全然違います。鑑賞する時間やペースも合わせなければいけないですし、相手との関係性によって変わってきます。デートで鑑賞するのか、友達と鑑賞するのか。アートについての興味のズレによっても変わります。その際に発生するコミュニケーションも鑑賞の一部に入れてしまいます。



「何を」

作品を観ることはもちろんですが、いかにそれ以外を鑑賞するかも大切です。例えば監視している人、作品を観ている人、その場で交わされている会話などを注意深く鑑賞しましょう。そしてそれらを鑑賞の要素として考えます。



「なぜ」

作品を観ている時にふと思う「”なぜ”こうなっているのか」を大切にしなければなりません。”なぜ”をきっかけに思考することこそ、ナラティブを引き出すことだからです。”なぜ”の先にある根拠のようなもの(それが正確かどうかはといませし、複数でもかまいません。)を美術史の中から、自分の記憶の中から、今日の出来事の中から探し出し繋ぎ合わせます。そうすることで見えてくる物語がナラティブです。



「どのように」

美術館の年間パスを使って1つの展示を複数回観るとすると、どのように観るか条件付けることで同じ展示でも全く違う鑑賞経験を得ることが出来ます。例えば、作品を照らす照明を軸に鑑賞してみたり、1つの作品しか鑑賞しない、こちらで条件を設定して鑑賞するなどです。




(展示会場まで歩いている時に見かける何気ないものを頭の隅に置いておく。)



【鑑賞者側からキュレーションする】

ナラティブを鑑賞者側から引き出すということは、過剰な鑑賞と言えます。なぜならば作家がコントロールしていない(そもそも出来ない)領域までも作品鑑賞に含め、勝手に文脈を設定し、意味を生成してしまうからです。その勝手さには鑑賞者側からのキュレーションという可能性が秘められています。作家が作品の意図を示し鑑賞者が受け取るという、従来の作家と鑑賞者の絶対的な関係性に対してハードコアな鑑賞は、キュレーターが文脈を設定し、作品を並べることで展覧会を作るように鑑賞者自ら文脈を設定し、その文脈から作品を勝手に読み替えてしまいます。


【ハードコアな鑑賞のバリエーション】


そんなハードコアな鑑賞にはいくかのバリエーションがあります。


個人で楽しむハードコアな鑑賞

個人で楽しむやり方はシンプルかつすごく楽しいやり方です。トマソンを探しに街に出かけるような感覚に近いのかもしれませんね。とにかく、いろんなものに勝手に関連付けてどんどん誤読していくだけでいつもと違う鑑賞経験を得ることが出来ます。



ハードコアな鑑賞ツアーとして

このやり方はよりキュレーションに近い形式です。特定の展覧会のアンオフィシャルなツアーを企画し、文脈の設定や条件をコーディネーターがあらかじめ決め、参加者にそれを体験してもらいます。ここまででもいいですが、さらにその後、感想についてディスカッションして、自分が見落としていたところなどを他の人とシェアする。そうすることで複数の視点からの感想(ネガティヴな感想もポジティブな感想もどちらもあるのが理想的)を聞くことで鑑賞経験の立体化出来るのがベストですね。ちなみに11月に開催した土曜会ツアーはこのモデルのプロトタイプとして実施しました。


ここからはハードコアな鑑賞からは少し外れてしまうんですが、ハードコアな鑑賞の延長線上にあるものを紹介しておきます。


参加型作品への介入、展覧会への鑑賞という形での介入、ハッキング

この方法はかなりハイレベルかつ問題になりかねないものなので基本的にはオススメしませんが、可能性の話として説明しておきます。(このレベルのことをするのはアーティストぐらいしかいないと思いますが、、)

参加型作品に参加者として作品に介入し、作品の持つ問題点などを内側から暴いていく、あるいは内側から文脈を書き換えるなどです。作品に介入された側はそこで上手く対応しなければ作品が破綻します。ですが、そこで介入された側が上手く対応出来た場合、意義のある素晴らしい作品になります。介入する側は、それ相当の覚悟と知識とスキルが必要となります。ヴァンダリズのようなレベルの低いやり方(ただ厄介な人が来ただけのような)ではダメで、あらかじめ主催者側から提示されるルールを守り、その条件下で作品の中から論争を引き起こすような形でないとダメです。(まぁ、逆にいうと参加型作品にはそういった介入されるリスクが常にあるということですね。)



少し話が逸れてしまったので本題に戻します。


ハードコアな鑑賞は過剰な鑑賞ということもあり、弊害はあります。(意図を無視したり、書き換えたりしてしまうので、、)僕自身、鑑賞において作品の意図やキュレーションを尊重するべきだと思います。同時に僕は、だからこそ本来的な鑑賞のオルタナティブとしてこの過剰な鑑賞=ハードコアな鑑賞は確保されるべきだと思います。なぜならば鑑賞の可能性、鑑賞の多様性が確保されるということはアートワールドの豊かさにつながるからです。


次回はこれまで書いてきた記事を整理しながら、現代アートの鑑賞入門をご紹介します。



関連書籍 

「解放された観客」 ジャック・ランシエール

「超芸術トマソン」 赤瀬川原平



土曜会は今回のようなアートを分析したり、お互に持っている知識の共有、つながり作りの場として4か月に1回開催している会です。アーティストに限らずいろんな方が参加されてます。 次回は2月11日( 土)開催。今回は僕もプレゼンします。堅苦しい感じではないのでご興味ある方は是非!合わせて土曜会でプレゼンされたい方も募集しています。応募されたい方はこちらのフォームにお願いします。


土曜会#6

日程 2月11日(土)19時〜21時

会場 東京都港区芝浦4−13−1 UR都市機構トリニティー芝浦 芝浦港南区民センター 第2集会室

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