社会関係資本の格差とリベラリズムについて

 ※以下、2018年7月に別のところに書いた文章を、再構成してこちらに載せたものです。11月18日に投稿した「マジョリティとマイノリティ」の問題と関連が深いので。

1.「人と人の絆」から世の中を見る―社会関係資本(social capital) 

「現代社会や都市では人と人のつながりが希薄。もっとコミュニティや絆を大切にしていかなきゃ!」
 ある種の社会問題が与えられたときに、お決まりのように登場するこの解決策。この解決策に出てくる「人と人のつながり」や「絆」をアカデミックに言い換えた概念が「社会関係資本」(social capital)です*1。社会関係資本をめぐる先行研究では、社会関係資本の高さ――すなわち人と人、人と組織のネットワーク(絆)の強さは、経済活動や市民の健康、教育などにメリットをもたらすとされています*2。

 この「人と人との絆」という観点は、場面によっては有用といえます。例えば、貧困問題への取り組みで有名な湯浅誠は、経済的困窮に陥っている人々は、同時に「人間関係の貧困」に陥っていることが多く、そのことが経済的貧困からの脱出をも困難にしているといいます*3。だからこそ湯浅は、船をつなぎとめる状態を意味する「もやい」という言葉をそのまま自らが代表を務めるNPOに冠し「居場所づくり」の活動に尽力しているわけです。経済的格差と社会関係資本の問題が密接に関連していることは論を待ちません。

 ここ最近(注:2018年7月現在)、無差別に人を殺めんとする事件が立て続けに起こりました。一つが、男が東海道新幹線の中で刃物を振り回し、一人が犠牲となった事件。もう一つが、富山で男が交番の警察官を刺して拳銃を奪い、発砲した事件。彼らはネット上で「無敵の人」と呼ばれています。失うものは何もない、それほどまでに追い詰められて凶行に走るから「無敵」。きっと彼らは「育ちすぎたかまってちゃん」なのです。赤ん坊に迷惑や責任という観念はない。ただ欲を満たすため、かまってほしいから泣きわめく。そのまま大きくなったのが彼らなのでしょう。

 しかし、彼らに倫理や責任を説くことに果たして意味があるのでしょうか。彼らはなぜ「無敵」になったのか、そこが肝要です。
 この2つの事件の犯人に共通しているのは「孤独感」「社会への馴染めなさ」が事件の引き金になっているように見えることです。新幹線の事件の犯人の「俺なんて価値のない人間だ」との発言、まるで哲学や文芸に救いを求めるかのような蔵書のラインナップ、富山の事件の犯人に学生時代のクラスメイトから向けられた「友達がいない」「何を考えているか分からない」とのコメント…。彼らには明らかに社会関係資本が不足しています。これらの犯罪は、社会の病理の表出ともいっていいと思います。そのことを直視せず、闇雲に「道徳」「倫理」を説き、彼らを「異常者」として切り捨てたところで、第三、第四の無差別殺傷事件が起きるだけなのではないかと思います。もし仮に自分が、家庭環境から生まれ持ったパーソナリティまで彼らと同じ境遇にあったとしたら、それでも同じことをしないと言い切れるだろうか?今持っているような「常識的」な倫理、責任感を育むことができるだろうか?
 きっとここでも、社会関係資本という概念が鍵になるのだと思います。

2.社会関係資本においての資本主義 social capitalismというものがあり得るのではないか?

 しかし、ここで注意を向けたいのは、次の点です。個人単位で見たとき*4、社会関係資本にもまた「格差」が生じているのではないか。つまり、社会関係資本(social capital)という概念を仮定するなら、社会関係資本主義(social capitalism)というものがあり得ることもまた想定する必要があるのではないか、ということです。

 周知のとおり、いわゆる資本主義、つまり経済学的な意味での資本主義については、福祉国家という形で歴史的に修正が課されてきました。いまや原理的な市場主義を唱える者は皆無です。そこには少なからず国家による市場介入と所得再配分が予定されています。
 ところが、人間関係については、今も昔も「剥き出しの市場原理」が作用しているように見えます。分野によっては、リベラルな価値観の浸透がこの傾向をさらに強めた面もあるのかもしれません。例えば、お見合い結婚に象徴される封建的な結婚制度は、リベラルな恋愛至上主義に完全に追放され、モテ/非モテ間格差が顕著になった、という議論は興味深いものです。いずれにせよ、これは常識からすれば当たり前のことです。我々は給与から所得税が天引きされ、稼ぎの多寡によって再配分されることは容認していますが、国家権力によって「人間関係が再配分」されることなどあり得ません。好きな人は好き、嫌いな人は嫌い。
 この「当たり前」から、人気者とそうでない者、それからはみ出し者が生まれます。「友達がいない奴」を。

 つまり、「社会関係資本主義」は徹底した市場原理主義の論理で動いており、しかもそれは本質的にリベラルな価値観と極めて親和性の高いものである、といえるように思われます。この問題は極めて難題です。ある施策によって地域コミュニティが「再興」して、とある社会の社会関係資本がマクロレベルで改善されたとしても、そこにはきっと排除された「社会不適合者」がいるはずなのです。
 そうだとすれば、彼らを包摂する道はどこにあるのでしょうか。僕だってここでは「彼らを救え」と上から目線で書き殴っているけど、身近にいたら「避けて」いない自信など微塵もない…

3.「弱い主体」の自由主義へ――大川正彦『思考のフロンティア――正義』から

 この社会関係資本の格差問題について、解決の方途はないのか。その手掛かりを得るべく、今回は大川正彦『正義』*5を取り上げてみたいと思います。
 経済的な格差とは異なり、国家が私人間の人間関係に手を突っ込んで配置転換するのが困難なのはなぜか。それは、近代以降の国家が、自由主義の要諦のもとに成り立っているからです。人々が土地や身分に縛られていた中世ヨーロッパの封建制や江戸時代とは異なり、各人は自律した主体として私有財産を持ち、自由に居住地や職業を選ぶことができます。
 ロックやミル、アダム・スミスといった政治哲学者たちによって芽吹いたこの「古典的」自由主義は、特にロックの議論に顕著ですが、第一義的には所有権(property)を重視します。つまり、自身の身体・生命をも含めた私有財産を侵害されない権利です。しかしそれと同時に見逃してはならないのが、この古典的自由主義が想定している個人像、主体像です。大川は、アメリカの法哲学者シュクラーを引きながら、この初期の自由主義を<希望の党派>自由主義と呼称し、そこには2種類の自由主義(自然権の自由主義、人格的発展の自由主義)が含まれていると整理します。重要なのは、いずれの立場も、「自律した」「強い」主体像を想定しているという点です。

自然権の自由主義(Liberalism of Natural Rights)は、それぞれが自らや他者たちのために立ち上がる能力と意欲をもった、政治的に屈強な市民から構成される正しい社会を思い描く。*6
「精神自身がくびきに屈している」状態を脱し、「自己の本性にしたが」い、自らの「人間的諸能力」をあますところなく発展させ、「私のうちにある最善にして最高のものを十分に活動させそれが成長し栄えるのを可能にする」ような、自由で開いた社会をつくりあげていくこと。ここに「人格的発展の自由主義(Liberalism of Personal Development)」のねらいがある。*7

神が各人に授けた「自然権」たる自らの財産を、そして他人の財産を、それぞれ守りぬくこと。非合理的な伝統や慣習を捨て去り、理性をもって自己の人格を陶冶していくこと。<希望の党派>自由主義が目指すところの社会そして個人の在り方はここにあります。

 なんとまあ理想論を、と思われるでしょうが、相変わらず現代のリベラリズムにおいても、こういった思想は根強く引き継がれているように思われます。立憲民主党や社会民主党の支持層に代表される「リベラル」界隈が好んで使う「市民運動」という用語、ここで想定されている「市民」の理念型とは、まさしく教養を備え、草の根的な政治活動に積極的にコミットしていく自律した主体に他なりません*8。
 おそらく、富の再配分を強く要求し、マイノリティの地位向上にも声を上げてきたリベラルな人たちも、この点には無自覚なのではないのではないでしょうか。むしろ相変わらず一人一人に、「自律した市民」たることを求めているのではないでしょうか。責任ある市民ならば、一定の知識を備えているべきだ。政治に無関心ではいけない、必ず投票に行き政治に参加すべきだ。
 しかし、誰しもがそうした屈強な主体でいられるのでしょうか?社会から切り離された「無敵の人」が?

 大川が参照するシュクラーは、<希望の党派>に対置する形で<恐怖の自由主義>を提唱します。この立場は、近代に芽生えた自由主義が、もともと前近代の宗教紛争が生んだ「残酷な行為」や「恐怖」から逃れるという観点から浮上してきたものであることに注目し、個人に保証されるべき自由を、「弱き者と強き者のあいだの違いがもたらす無防備な者への脅迫から免れる自由」とみなします。そしてその前提にあるのは、ひとが誰しも誤りうる、誤ってひとを傷つけうる、いとも簡単に傷つけられてしまう、という認識です。つまり、弱い主体像です。
 ひとは皆誤りうる存在、簡単に傷つく弱い存在、そういう主体像に根ざした自由主義は、社会から孤立した人たち、まさしく、傷つけられた人たちに対してどう向き合うことを要求するでしょうか*9。大川は、不正義を表出する相手がそこに居ることを注視した上で、その人の言葉を聴き届け、翻訳する仕事がなければならない、といいます。それは、ホワイトのいう「不必要な受難や不正義といった生に付加された重荷を負っているすべてのひとの対する繊細な同情と調和する」という方向性を単に踏襲するようにも見えますが、大川はなお問いを重ねます。

「すべてのひとに対する繊細な同情」とは、不正義感覚の異なりを携えながら、やりとりを切り抜けていく上でなんとか折り合っていくプロセスを、まるごと先取りし、そのプロセスが首尾よく到達した地点から出発点を規定しようとしてはいないか。…そのことによって、「不必要な受難や不正義といった生に付加された重荷を負っている」ひとを、愛されるべき対象として、愛される以外に何もできない…そこに居ることさえ忘れられた抽象的な「他者」へと切り刻んで切り詰めてしまっていないか。自らの悦に入った「他者性への責任=応答可能性」を成就するための小道具にしてしまってはいないか。…*10

この記事を書く僕自身の欺瞞をまで暴かんとするこの指摘。「ではどうすればいいのか?」という問いに対する明確な答えは、残念ながら僕が読む限りでは得られなかったのですが、社会に孤立させられた主体に対して、不正義という重荷を背負った主体に対して、どう向き合っていけばいいのか、本書は極めて有用な視座を提供してくれるように思います。

以下、注釈

*1 その定義はかなり曖昧なのだが、ここではその曖昧な定義に乗じて「人と人、人と組織間の信頼、絆、ネットワーク」を表す言葉として借用させてもらっているだけであって、この文章に社会関係資本概念そのものを批判するねらいはない。

*2 稲葉陽二『ソーシャル・キャピタル入門』(中公新書、2011年)などが詳しい。

*3 湯浅誠『反貧困』(岩波新書、2008年)。ブックオフにいくらでも転がっているので読むべし。

*4 「社会関係資本」概念そのものは、この分野の第一人者である社会学者パットナムの議論をみても、あくまでも特定の社会を記述する変数として用いられることが多いように思われる。したがって、「個人単位で見たとき」という仮定も厳密には怪しいのだが、いずれにせよ*1で述べた通りである。

*5 大川正彦『思考のフロンティア―正義』岩波書店、1999年。

*6 前掲書、18頁。

*7 前掲書、19-20頁。

*8 あくまでも「理念型」(ウェーバー)として。「知識人」の地位低下が著しい2010年代の昨今ではあまりピンと来ないかもしれないですね。

*9 「残酷さからの回避」を要請する<恐怖の自由主義>は一見、「消極的自由」(バーリン)と相違のないもののように見えるし、そうだとすれば、そもそもこのような要求は出てこないだろう。しかしシュクラーによれば、<恐怖の自由主義>は「消極的自由」とは異なる。<恐怖の自由主義>はあくまでも残酷さという<共通悪>からの回避を要請するものであるが、大川は<共通悪>の回避の裏返しとして、シュクラーが<共通善>的なものを想定していると読む。そうだとすれば、<恐怖の自由主義>はむしろ「積極的自由」に属するといってもいいだろう。

*10 前掲書、59頁。


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