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囲碁史記 第134回 本因坊秀哉の引退


秀哉の苦悩

第二十一世本因坊秀哉

 明治四十一年、三十四歳の時に念願の第二十一世本因坊となり、 秀哉と号した田村保寿は、六年後の大正三年には名人に就位し、日本囲碁界を牽引してきた。
 しかし、昭和に入ると木谷実や呉清源ら若手棋士が台頭する中、寄る年波には勝てず、後継者について真剣に考えねばならなかった。
 囲碁家元の本因坊家は世襲制ではあるが、必ずしも血筋が重視されず、門下を中心に最も実力ある者が継承してきた。
 秀哉門下には小岸壮二という天才棋士がいた。小岸は大正七年から翌年にかけ時事新報の勝抜戦で三十二人抜きを達成するなど碁界きっての逸材であったが、大正十三年、関東大震災で被災した中央棋院の立て直しに奔走する中、腸チフスにより二十六歳の若さで亡くなっている。
 秀哉門下には他に、蒲原繁治、福田正義、村島誼紀、前田陳爾、高橋重行らがいたが、木谷実や呉清源らが活躍していく時代に、いずれも当主となるには力不足であった。小岸壮二を失った秀哉の落胆は大きかった。

新聞社の動向

 現在、本因坊の名はタイトル戦に引き継がれているが、主要タイトル戦のほとんどが新聞社主催で行われている。
 明治十一年に郵便報知新聞が初の新聞碁を掲載して以来、各新聞社は部数獲得のため有名棋士の棋譜を掲載してきた。新聞主催の対局が初めて催されたのは明治三十一年の 国民新聞からと言われ、明治後期から大正にかけては、時事新報の「囲碁新手合」と萬朝報の「碁戦」の二つの棋戦が主流となってきた。
 報知新聞(郵便報知新聞から改題)は、大正十一年に組織された裨聖会を支援し、棋譜を掲載しているほか、日本棋院設立後、間もなくして分離した棋正社も、報知を拠点としている。
 そもそも棋正社は、日本棋院が、新聞社との棋譜掲載の契約を抽選により一括で提供する方式に改めたことに不満を持った報知新聞社が、棋士と個別に棋戦を行う契約を締結し、除名された、雁金準一、高部道平ら五名の棋士により設立された組織である。
 そして、大正末期から昭和にかけて、新聞碁で最も成功したのが読売新聞である。
 報知新聞が棋正社と距離を置き始めると、読売新聞社長の正力松太郎は、日本棋院と棋正社に対抗戦を持ち掛け、院社対抗戦は大きな話題となる。これにより読売新聞は売り上げを三倍に伸ばし、一流新聞の仲間入りを果たしている。
 また、昭和八年の本因坊秀哉と呉清源の対局も大きな話題となり、売り上げを大きく伸ばしたという。
 朝日新聞は、久しく新聞の囲碁欄を中断していたが、読売新聞の成功に刺激を受けて、日本棋院大手合の独占掲載権を獲得している。昇段のかかる大手合は大変な人気で、売上拡大に大きく貢献することとなる。
 読売新聞や朝日新聞に対し、一歩出遅れた感じになったのが東京日日新聞(毎日新聞)である。当時の毎日新聞は、東京の東京日日新聞と、大阪の大阪毎日新聞の二社に分かれていたが、主要な企画は合同で行うなど、経営的には一体化していた。
 囲碁に関しては、昭和二年に若手棋士に的を絞った新進打切碁戦で木谷実が十人抜きを果たし「怪童丸」と称されるなど一定の成果はあったが、読売・朝日に比べるとインパクトに欠ける状態であった。
 そうした状態を打開するために動いたのが、当時東日の学芸部長の阿部真之助である。この阿部の動きが秀哉の引退と大きく関わっていくこととなる。

引退発表、そして本因坊戦設立の経緯

阿部真之助

 阿部が考え出した企画は「名人戦」の実施である。棋士の最高位である名人は、従来家元らによる話し合いで決められ、異議がある場合に争碁で決められることもあった。
 阿部は、それを東日が主催するタイトル戦の優勝が名人位を獲得する、実力本位制に改めるよう提案したのである。昭和九年のことである。
 この提案は将棋界に対しても行われ、将棋連盟は提案を受け入れ、昭和十年三月に名人戦創設の声明書を、東日・大毎両紙で発表した。第十三世名人関根金次郎は七十歳となる昭和十二年に名人位を返上し、二年にわたる「第一期名人決定大棋戦」の結果、木村義雄が実力性による初代名人に就任。これにより初代大橋宗桂以来続く、世襲による名人制が廃止され、短期ではあるが実力制による名人位制度が始まっている。
 関根名人は、かつて小野五平が十二世名人を継いだとき、実力は自分の方が上だと勝負を挑み、周りに止められた苦い思い出がある。そこで、後輩には同じ思いをさせたくないと考え、阿部の提案に乗ったという。
 一方、囲碁界の方は実力性の移行は簡単なことではなかった。
 秀哉名人も、関根名人同様に実力以外のところで争いが起こり、苦労の末家督を継いでいる。また、先ほども述べたとおり本因坊家を継ぐべき適当な人物がおらず、名人位の譲渡には否定的ではなかった。
 江戸時代は名人碁所が免状発行権を持ち、不在の時期は家元の合議で決めていたが、日本棋院創設にともない、秀哉は免状発行権を棋院に譲渡していたので、家元を廃止しても別段支障はなかった。
 ちなみに家元の井上家は日本棋院創設に参加しなかったが、この家元の存在理由である免状発行権を手放す事に難色を示したのが理由と考えられている。
 ただ、秀哉は東日が提案した「名人戦」ではなく、名称を「本因坊戦」とするよう強く要望した。つまり、譲渡するのは名人ではなく、囲碁界の筆頭である本因坊の名跡であると主張したのだ。
 明治に入り戸籍が整備された際、本因坊秀和は本因坊を名字とせず、元の土屋姓で届け出ている。秀哉も戸籍上の本名は田村保寿である。  
 本因坊が本姓であれば、家元継承は養子縁組により行われたのであろうが、実際には芸名のようなもので、だからこそ秀哉は囲碁の最高実力者が名乗る名跡として本因坊の名を入れる事にこだわったのだろう。
 だが、本因坊戦の創設は、当主の秀哉をもってしても容易なことではなかった。門下の中で跡目候補となる者全員を納得させる必要があったのだ。また、木谷実や呉清源ら本因坊門下以外の棋士を説得する必要もあった。名人戦ならともかく、なぜ本因坊の名を継がなければならないのかということである。
 東日では、将来問題が発生しないため、本因坊の名跡について、秀哉とその門人に権利金を払い譲り受け、本因坊戦の棋譜独占掲載権と引き替えに日本棋院へ寄付するという方式をとった。
 また、説得のために蒲原繁治や前田陳爾ら坊門の中でも色々と言ってきそうな人物を、連日連夜料亭に招き宴会を開いたとも言われている。
 一説には権利金は秀哉が三万円とか、門下と合わせて五万円であったという噂もあり、根回しのための費用も含め総額二十五万円という、当時としては非常に多額の費用をかけたと言われ、阿部は、もし交渉が失敗したらクビを覚悟しなければならなかっただろうと語っている。
 なお、実際に交渉にあたったのは、阿部の部下の黒崎貞次郎であった。黒崎はこのような交渉ごとに強く、後に社会部長、事業本部長を経て毎日球団取締役に就任。また、プロ野球の毎日球団(毎日オリオンズ・現千葉ロッテマリーンズ)取締役に就任し、パリーグの設立に尽力、パリーグの理事長も務めた人物である。
 本因坊戦設立を主導した阿部真之助は、後に東京日々新聞主筆を務め、定年退職後はNHK会長などを歴任している。日本エッセイストクラブを創立して会長に就任したほか、「小さな親切」運動の提唱者の一人としても知られる。恐妻家を自称し「恐妻会」会長を名乗ったとされるが、本人は否定していて、「恐妻とは愛妻のいわれなり」との名言を残した。
 こうして本因坊秀哉は昭和十二年に引退し、最後に引退碁を実施することを発表、本因坊戦創設が発表されたのは昭和十四年で、交渉開始から四年の年月が経っていた。

名人の引退碁

 本因坊戦の詳細については別の回で改めて紹介するが、今回はその序章として行われた秀哉名人の引退碁について紹介する。

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