見出し画像

囲碁史記 第81回 秀甫・秀栄 和解の十番碁


 明治十二年四月に、家元も参加して設立された方円社は、十月になると実力主義で家元の権威を蔑ろにする運営方法に反発した家元が離脱。以降、両者は反発を続けてきた。
 その間、囲碁界の第一人者である村瀬秀甫を擁し隆盛を誇っていく方円社に対し、低段のまま当主となった十六世本因坊秀元は苦境に立たされ、事態を打開するため、実兄の林秀栄は家元林家を断絶させて本因坊家に戻り、十七世本因坊秀栄となっている。
 その秀栄が明治十七年十二月、五年ぶりに方円社の定例会に出席し村瀬秀甫と対局している。坊社の和解に向けた十番碁の始まりである。
 今回は、この和解に向けた動きを紹介していく。

和解へ向けた動き

 研究会として「方円社」がスタートした際、政財界より百九名の賛成者が名を連ねていたが、家元の離脱に伴い支援者も分かれていった。方円社側の支援者には井上馨、後藤象二郎、岩崎弥太郎、渋沢栄一らがいて、本因坊家の支援者には、犬養毅、遠山満らがいた。
 本因坊を継承した秀栄は、減っていく支援者をつなぎとめるために有力者の挨拶まわりをしていくが、方円社との話し合いを求める声は多く聞かれたという。
 その中には秀栄の親友である李氏朝鮮後期の政治家・金玉均もいた。金玉均については別の機会に改めて詳しく紹介したいと思うが、日本へ亡命して当時、岩田周作と名乗っていた金玉均は、秀甫より囲碁を習い、その後、歳の近い秀栄と知り合い親友となったことから両者が和解するよう働きかけていたという。
 また、秀栄が和解に動くことに大きな影響を与えた人物として生田昌集(金吾)の名を挙げる人もいる。生田は秀栄の妻満基子の父である。

『圍碁段附 : 日本國中』(明治八年)

 生田は有馬中務太夫の家臣で安井門下であった。明治八年の「囲碁段附人名録」では二段となっている。囲碁史研究家の林裕氏は、生田が方円社の定例会に初めて参加したのは明治十七年七月二十日で、秀栄が参加する五ヶ月前であったことから、秀栄の方円社定例会参加のための布石ではなかったかと考えている。林裕氏は、秀栄の苦難の時代を支えた生田は、表にこそ出てこないが、秀栄の参加について他の仲介者よりも大きな影響をあたえたのではないかと述べている。
 なお、秀栄が初めて方円社定例会に出席した日に生田も出席している記録が残されている。

後藤象二郎

 関係者の働きかけを頑なに拒んでいた秀栄も、最終的に維新の立役者で政界の大物である後藤象二郎の説得で方円社との話し合いを承諾したと言われている。その経緯が「坐隠談叢」(新編増補版)には次のように掲載されている。

ここから先は

2,505字
この記事のみ ¥ 200

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?