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囲碁史記 第22回 道策の門人①五弟子


 名人碁所となった道策は、弟子の育成にも力を注いでいる。江戸での道策の人生において前半は安井家との戦いに、後半は小川道的をはじめとする優秀な弟子たちがライバルであった。道策には五弟子という優秀な弟子がいた。五人とは小川道的、桑原道節、星合八碩、佐山策元、熊谷本碩である。

小川道的

本因坊道的の墓(本妙寺 道知・秀策と同墓)

 昔から幼少時に才能を発揮して神童や天才児と讃えられる人物がいるが、小川道的はまさにそうであった。寛文九年(一六六九)に大師匠である三世本因坊道悦と同じ伊勢松坂で生まれている。
 道策に入門した年月は不明であるが、十三歳で六段格と伝えられており、神童中の神童、碁の申し子と言われている。いったい初段になったのはいつのことであったのだろう。
 十四歳のときに、師匠道策と互先で二局打っているが、どちらも黒を持った方が一目勝っている。道策はこのとき名人であるから、十四歳ですでに名人と互角の力量を持っていたことになる。
 貞享元年(一六八四)九月に道策は道的を跡目とする。道的はこのとき十六歳である。幕府に差し出した願書は次の通りである。
 
  
一、私弟子道的儀、紀州様御領分勢州松坂にて小川草庵と申者の世忰に御座候、幼少より碁器用に仕候に付、私手前に指置候、当年十六歳に罷成り跡目の弟子に仕度候故、紀州様に御断申上候処、勝手次第に候様との御事に御座候、右の通に御座候間、私跡目に仕度奉願候、御序を以て何卒御目見之儀奉願候仰付被下度右奉願候、以上。
 九月        本因坊道策

 
 道策の孫弟子石井恕信が、先輩達から見聞きしたことを記した著書『恕信見聞記』には、道的は江戸出生と書かれているが、道策の提出した覚書には紀州藩に問い合わせて許可を得た由がわざわざ書き記してある。
 同年十月十八日、道的は江戸城に登城を命じられ、本因坊道的を名乗った。道的はこの年の御城碁から出仕している。初の御城碁では安井春知に勝利し、老中松平日向守より十人扶持を下賜されたとされている。
 さらに道的は幕府にも注目されており、『坐隠談叢』にも次のことが記されている。
「其後寺社奉行より道策、道的、道哲(算哲の誤植であろうか)、春知の四人を呼出され、役人三人立会の席にて、阪本内記より道的所作秀逸を以て、手合を進むべき旨申渡さる。道策は此命を聞き、取敢へず、道的未だ幼年の旨を以て一応辞退に及びたるも、再度の命により道的を上手並とせり」
 幕府も道的の才能には注目していたようで、道的を六段から上手並(七段)に昇進させるようにという命があった。一説には、道的の強さに閉口した安井一門が幕府へ働きかけたというが、名人道策と力量が同格並の道的を六段から上手並にしようが、安井一門の成績を上げることには繋がらないであろう。
 そんな道的であるが、元禄三年(一六九〇)五月七日、わずか二十二歳で夭折した。法名は日勇、跡目のままであったが巣鴨の本妙寺境内本因坊歴代の墓地に眠っている。

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