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囲碁史記 第63回 秀策を鍛えた先輩たち


 秀策は跡目となるまで、なってからも多くの兄弟子や他門の先輩たちに鍛えられている。本因坊秀和や葛野忠左衛門、伊藤松和、太田雄蔵らの棋譜が特に多く残されている。
 兄弟子である秀和とは秀策白番の棋譜が無いため、秀和に敬意を表して秀策が白を持たなかったといわれている。秀和は将来の時分の後継者であり、本因坊家を背負う秀策と実に多く対局している。
 葛野忠左衛門、伊藤松和、太田雄蔵の三人には大いに苦しめられている。他の先輩たちに比べてなかなか勝つことができず手合も進められなかった。そのためか特に対局数が多い。
 今回はこれまで詳細を説明してきた人物以外の秀策の先輩たちを中心とした、この時代の碁打達を紹介する。

宝泉寺葆真

 これまでも紹介してきたが広島県竹原市宝泉寺の十世住職で秀策の最初の師匠である。
 改めて説明するが、宝泉寺には服部因淑、井上因碩(幻庵)と書かれた碁盤が二面残されている。天保六年(一ハチ三五)に葆真は因淑と対局し、その強さに感服した因淑により本因坊丈和への推薦が行われ、初段の免状が与えられる。
 一方で、書家としても秀で、江戸時代中期の書家・趙陶斉の門人であったと言われている。趙陶斉は、長崎で清の商人と日本人との間に生まれた人物で、門人には幕末の思想家・頼山陽の父である頼春水もいた。
 囲碁好きの三原城主・浅野忠敬の依頼で当時七歳の安田栄斎(秀策)を預かるが、秀策は碁だけでなく書なども葆真和尚より学んでいる。
 秀策は、八歳の終わり頃には葆真和尚と互角に戦えるほどに成長し、江戸へ出て本因坊門に入るが、一方で葆真和尚は、その後も昇段を重ね、井上因碩(幻庵)より二段、そして三段の免状を与えられている。免状は宝泉寺に所蔵されている。

宝泉寺本堂
庭に設置された碁盤が刻まれた石のテーブル

 現在、宝泉寺には秀策ゆかりの品々など貴重な資料が展示されていて、事前にアポをとっておけば見学できる。特に「ヒカルの碁」で紹介されて以降は、多くの人が訪れるようになったという。

宝泉寺跡
宝泉寺跡の前を流れる賀茂川

 なお、秀策が囲碁の修行をしていた当時の宝泉寺は別の場所にあったという。その場所は竹原町下野町の賀茂川沿い。竹原病院の南側で、川の対岸には安田病院があるあたり。川沿いにあった故に度々水害に見舞われたため、現在地へ移転したそうだ。
 宝泉寺のご住職より情報をいただいて現地へ行ってみたが、残された石垣が僅かに当時を偲ばせている。

岸本左一郎

岸本左一郎の経歴

石見銀山で知られる島根県大田市大森地区

 岸本左一郎は秀策より七歳上の兄弟子で文政五年(一八二二)に世界遺産「石見銀山」で有名な石見国大森(島根県)に生まれ、出雲国の山本閑休に漢学と囲碁を学ぶ。閑休は井上門下初段で左一郎を見出し囲碁の修行を勧めた人物といわれている。 天保十二年に閑休は亡くなっているが、葬儀には左一郎が出席しているほか、安政四年二月には十七回忌追善碁会が山本家で開催され、帰省中の本因坊秀策が招かれている。

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