見出し画像

囲碁史記 第64回 秀策、信州への旅 関山仙太夫と白木助右衛門


 秀策は江戸へ出て以降、帰郷以外で旅に出たのは嘉永四年(一八五一)の信州旅行のみである。この信州旅行では関山仙太夫との二十番碁が行われている。今回は、この信州への旅について紹介していく。

関山仙太夫

関山仙太夫について

 関山仙太夫は天明四年(一七八四)、信州松代藩(現在の長野県)の上級武士の家に生まれる。父は三弥正能。藩の宗門奉行で後に御目付役となる。祖父正武は百石の槍術師範であった。
 仙太夫は幼名を虎之助といい、碁を祖父正武から学んだ。正武は井上門下で、「碁局法式」という文章を書いている。井上因碩から伝えられたとして、碁盤、碁石、碁笥の置き方、石の打ち方、手合割など、囲碁対局の基本が記されているが、原文の所在は不明となっている。
 当時、各藩では文武のことで領内の天才少年を育成し江戸に出して修行させることが多かった。囲碁もそうであり、秀策などはまさにその代表格であったが、仙太夫も寛政九年(一七九七)十四歳の時に江戸へ出ている。はじめ本因坊門下の水谷琢元に学び、翌年、十世本因坊烈元へ入門した。
 仙太夫の入段については史料によってばらつきがある。白木助右衛門の『棋家系譜』には「十六歳のとき初段免状済み」とあり、『坐隠談叢』には「十八、九歳の頃、既に入段の技を備え」とある。また、昭和四十九年の『松代町史』には「十八歳の時初段の免状を得て帰国」とある。しかし、仙太夫自身が天保十五年六十一歳のときに書いた『竹林亭心意稽古碁集』の中に、「享和元年初段の免状を受け帰国」という文献が発見され、十八歳のときであったことが判明した。
 初段となった仙太夫は松代に帰った後、十九歳のときに突然碁をやめてしまう。同藩の者から、囲碁が強くても文武の道に疎ければ武士とは言えないと罵られたからである。そのため碁を断ち、弓馬槍術を習いその奥義を極め、さらに経書を輪講している。書も多く残していて竹林亭と号した。
 そして、賞状を藩主から賜るなど文武両道に達した後に、再び囲碁に戻ったといわれている。
 しかし、周囲に自分より強い者がいない。技量が上がらないことに「心苦し」という記述が残されている。文政二年から四年には諏訪で佐野常次郎に先や二子置かせて何局か打ち、十月になると名古屋に出て伊藤松次郎と十六日から二十四日まで連日のように打っている。文政七年から九年までは、伊藤松次郎、加藤隆次郎、青木元悦(山本源吉)、伊東子元、伊藤徳兵衛など、名古屋東海の碁打ちとの対局が非常に多くなる。棋力向上のために他地域の強豪を求めていたのだろう。文政九年九月までは名古屋にいたが、松代に一旦帰り、十一月には二十五年ぶりに江戸に赴いている。
 翌年の一月にかけて、本因坊元丈との二子局をはじめ、水谷琢順、水谷琢廉、宮重岩之助(後の本因坊丈策)、服部雄節、勝田栄輔、竹川弥三郎、斎藤丈貞など各門の碁打ちたちと対局を重ね、自分の力が免状の初段より上がっていることを実感している。
 四年後の天保二年(一八三一)には三度目の江戸となるが、これが最後の江戸であった。四十八歳のときである。このとき母の訃報を受けたが、最後の江戸と思ったのか松代に帰らず貪欲に碁を打ち続けていたと伝えられる。江戸での最後の対局はこの年の六月二十三日、上野寛永寺の塔頭真如院で行われた本因坊丈和との二子局である。丈和はこの年の三月に名人碁所となっており、仙太夫には忘れられない一局となったであろう。結果は仙太夫の一目勝ちであった。

現在の真如院
江戸時代に真如院があった場所(上野駅前)

 現在、真如院は台東区上野公園に他の塔頭と共にあるが、江戸時代には下谷から寛永寺へ通じる車坂の坂上にあった。現在の上野駅の西隣、国立西洋美術館の駅側および東京都東部公園緑地事務所のあたりだ。坂下には本因坊家の道場があり、道場近くで対局場として使いやすい場所であったのだろう。仙太夫の対局以外にも残されている棋譜に会場としてその名を見ることができる。
 ところで、仙太夫は生涯初段で通している。江戸に出ることも無くなれば対局の機会も減っていき、二段、三段と上げていく時間もないので飛び付け五段をと丈和へ願い出たが、前例がないため、とりあえず三段ではどうだろうかという返答であったので、それならばいらないと断ったと伝えられている。先の囲碁をしばらく断ち文武に集中したというエピソードでも分かるように仙太夫は強情な性格であったようで、ありえない話ではない。
 仙太夫は初段ではあったが、実際には五段格を許されていたと思われる。囲碁番附には、六段の次、五段のところに「初段 関山仙太夫」とあり、これは異例なことであった。さらに各手合割についてであるが、丈和に二子の時点で五段の扱いである。また、六段の林柏栄に白番で打った碁も見られることから、これは一段差の先相先の手合である。免状こそ初段であったが「黙許五段」とされていた。
 この後、江戸へ出ることはなかったが、名古屋や大阪には出向き、伊藤松和(松次郎)をはじめ数多く対局している。藩での役職についてははっきりしないが、安政二年(一八五五)に藩校文武学校が開校した際には監察に任じられている。隠居してからは囲碁三昧であったという。古今の名手の棋譜や自分の打碁をまとめながら後進の指導にあたっていた。仙太夫は筆まめで、評が入った古今の名手の棋譜集が多く見つかっており、仙太夫自身の棋譜も二六〇局以上ある。手紙類も多く、本因坊家とのやり取りで当時の様子を窺うことができる。

ここから先は

3,764字 / 7画像
この記事のみ ¥ 300

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?