囲碁史記 第124回 日本棋院の組織概要
日本棋院役員
現在の日本棋院は、理事長をトップとする理事会により運営され、理事を選任する評議員会、および監事がそれをチェックする組織編制であるが、設立当時の棋院は、総裁をトップに副総裁が補佐し、実際の運営には理事があたっていた。
また、明治以降、棋士同士の対立から囲碁界が分裂していた経験から、棋士は一切経営に関わらず、役員は囲碁愛好家へ一任することとなった。
前回、役員について、大正十三年八月の設立趣意書と、大正十四年八月の財団法人設立時の役員を紹介したが、今回は「坐隠談叢」(昭和三十年新編増補版)に掲載されている役員を紹介する。
総裁 伯爵 牧野伸顕
副総裁 大倉喜七郎
理事
各務鎌吉、土方久徴、小池國三、(男爵)松岡均平、
大縄久雄、水川龍太郎、(法博)渡辺銕蔵、
谷口房蔵、鑄谷正輔
監事
米山梅吉、高橋錬逸、大谷嘉兵衛
日本囲碁協会設立を提唱していた大縄久雄については既に紹介しているが、それ以外の役員について何人か紹介する。
初代総裁 牧野伸顕
現在の日本棋院総裁は、囲碁に対して功績のあった人物を讃える称号で、経営に関して何も権限を持っていないが、設立当時の総裁は、まさしく組織のトップという位置づけであった。
初代総裁は囲碁愛好家として知られた大久保利通の次男、牧野伸顕である。
明治四十一刊行の『閑話休題』(民友社)には、牧野について次のように紹介されている。
「牧野文部も甲東公の二男だけに終始碁盤に親み外国にも携ヘ行ったほどであるから修行の功空しからず、この程方円社より三級初段の免状を受けたそうな・・・」
決して強豪ではなかったが、囲碁の愛好家として知られていなことが分かる。
牧野伸顕は文久元年(一八六一)、鹿児島に生まれ、生後まもなく親類の牧野家の養子となる。明治維新を迎え、明治四年に父・大久保利通を含む政府首脳による「岩倉使節団」に同行し、十一歳でアメリカ留学している。
明治十三年に外務省へ入省。イタリア公使等を経て文部大臣、外務大臣等を歴任している。
大正八年、第一次世界大戦後の「パリ講和会議」に次席全権大使として参加、この時、日本一行で采配を振っていたのは首席の西園寺公望ではなく牧野であったと言われている。なお、随行員の中には娘婿で当時外交官であった吉田茂もいた。
大正十年には宮内大臣に就任し子爵となるが、背景に英米協調派で自由主義的な牧野を置くことで、皇室が政治的な騒乱に巻きこまれないようにという思惑があったと言われている。昭和天皇は牧野に絶大な信頼を置き、宮内大臣退任後も度々、宮中へ召し出され意見具申している。
以前紹介したが、この時期、政治家の榊田清兵衛が、政府に囲碁局を設置しようと動いていたが、相談を受けた牧野は理解を示したものの、それには碁界統一が必要と説いている。
英米協調派で天皇に具申できる立場の牧野について、軍部を中心に快く思っていない者がいたと言われ、昭和七年の「五・一五事件」では襲撃対象となっている。当時は内大臣であり、官邸が襲撃されたが牧野は無事であった。
昭和十一年の「二・二六事件」では、湯河原の旅館に宿泊中に襲撃されている。この時は、孫の麻生和子(吉田茂の娘で麻生太郎元総理の母)が身を挺して守り窮地を脱したという。
第二次世界大戦後に行われた衆議院議員総選挙で自由党が第一党となるが、総理大臣となる事が確実視された総裁の鳩山一郎が、GHQにより公職追放となる。この時に牧野を後継総裁へ推す動きがあったが高齢を理由に辞退。最終的に総裁に就任し総理大臣となったのが娘婿の吉田茂である。牧野は昭和二十四年一月二十五日死去、享年87歳。令和五年(二〇二三)、囲碁殿堂入り。
牧野は趣味も多彩であり、囲碁以外では「シャーロキアン」の草分け的存在としても知られている。シャーロキアンとは、シャーロックホームズの熱烈なファンのことである。
副総裁 大倉喜七郎
日本棋院設立を主導し、副総裁に就任したのが大倉財閥次期総帥の大倉喜七郎である。
大倉財閥は戦前に存在した十五大財閥の一つに数えられ、喜七郎の父、大倉喜八郎によって創業される。傘下には大成建設、帝国ホテル、日清製油(日清オイリオグループ)など、現在も活躍する有名企業が多数存在していた。
越後国北蒲原郡新発田(新潟県新発田市)で商人の家に生まれた喜八郎は、安政元年(一八五四)に江戸に出ると鰹節店での丁稚奉公を経て乾物店を開業。幕末の動乱に乗じて銃砲の販売店へ転じ名を馳せる。明治六年(一八七三)に銀座で大倉組商会を設立し、新政府の御用商人として台湾出兵、西南戦争、日清・日露戦争の軍需物資調達で財を成していった。大正六年(一九一七)には合名会社大倉組を持株会社とし、大倉商事、大倉土木(大成建設)大倉鉱業を直系三社とするコンツェルン機構が形成されている。
「資本主義の父」と呼ばれる渋沢栄一とも親しく、栄一の呼びかけで鹿鳴館、帝国ホテルなどの創立および運営に関わったほか、二人が発起人となり東京商法会議所(現東京商工会議所)も設立。企業以外でも明治三十一年(一八九八)に大倉高等商業学校(東京経済大学)を設立するなど日本の近代化に大きく貢献していった。
一代で莫大な財産を築き上げた喜八郎の有名なエピソードとして南アルプス赤石岳(三一二〇m)への「大名登山」が語り継がれている。大正十五年(一九二六)に秩父宮雍仁親王が立山を踏破したことに感激した喜八郎は、自らが所有する赤石岳の山頂で88歳の祝いを行うことを思い立つ。
まず登山道の整備から始まり、山頂で入るための風呂桶や、出来立ての豆腐を食べるために石臼まで担ぎ上げたといわれ、パーティーは総勢200名余りとなる。登山では本人は駕籠に乗り、急峻な所では背負子状の椅子を担がせたそうで、山頂で羽織袴に着替えて万歳三唱している姿が、当時貴重であったフィルムに収められている。喜七郎の赤石岳は日本登山史上最大の大名登山と呼ばれている。
なお、大倉喜八郎は日本棋院設立前に設立を目指していた日本囲碁協会において、賛同者の一人に名を連ねている。
喜八郎は、昭和二年(一九二七)に大倉火災海上保険(現・あいおいニッセイ同和損害保険)を創業するなど晩年まで精力的に活動していたが、同年一月五日に家督を嗣子・喜七郎に継承し、昭和三年(一九二八)に九十歳の生涯を閉じている。
大倉財閥二代目総帥の喜七郎は、明治十五年(一八八二)に喜八郎の嫡子として生まれ、明治三十三年(一九〇〇)にイギリス・ケンブリッジ大学へ留学。大正十一年(一九二二)に帝国ホテル会長を継承するなど着実に後継者としての地位を固めていった。総帥となってからは、ヨーロッパ式の本格的な観光ホテルの導入を目指し、川奈ホテル、赤倉観光ホテルを設立するなど大倉財閥をさらに発展させていく。
第二次大戦後、財閥解体や公職追放により帝国ホテルを離れることとなるが、東京オリンピックを二年後に控えた昭和三十七年(一九六二)に、日本古来の伝統美で諸外国の貴賓を迎える「帝国ホテルを超えるホテル」をコンセプトに「ホテルオークラ」を大倉邸の敷地跡に建設している。
囲碁の愛好家であった喜七郎は、喜多文子から指導を受けていて、その働きかけにより日本棋院設立に動いたと言われる。また、本因坊門と方円社が合流して中央棋院が設立された際、新会館建設のための資金援助を約束しており、中央棋院分裂後もその動きを注意していた。そのため、関東大震災後に裨聖会の高部道平が資金援助を要請した際、棋界が一つにまとまるなら援助をを惜しまないと述べ、日本棋院が設立されたのだ。
この後、棋院設立後、建設が始まった永田町の会館は、喜七郎の資金提供によるものである。
多趣味であった喜七郎は、文化・スポーツ分野にも広く功績を残している。イギリス留学中に自動車の操縦・修理技術を習得し、一九〇七年に完成した世界初の常設サーキット場ブルックランズ・サーキット(ロンドン近郊)でのカーレースにて、イタリア製フィアットに乗って二位に入賞した。帰国時には自動車五台を持ち帰り、日本初の自動車輸入会社「日本自動車」を設立するなど、自動車通として知られている。
また、昭和五年(一九三〇)には横山大観ら日本画家を支援してイタリア・ローマで「日本美術展覧会」を開催。出品作品はすべて買い上げ、戦後手元に残されていた作品を、理事長を務める「大倉集古館」へ寄贈している。
喜七郎は、昭和三十八年に亡くなるが、日本棋院では日本棋院生みの親といわれる大倉喜七郎の遺徳を讃え、昭和三十九 年に「大倉喜七郎賞」を創設、プロ、アマ、国内外を問わず、囲碁普及に特に功労のあった方に贈られている。
渡辺銕蔵
法学博士の渡辺銕蔵は明治十八年に大阪で生まれ、広島で育つ。
明治四十三年に東京帝国大学法科大学政治学科を首席で卒業、同年から英国・ドイツ・ベルギーに留学、大正二年に帰国し東京帝大法科大学助教授となる。この年、北里柴三郎の長女と結婚する。
大正五年に教授、大正六年に法学博士となり、大正八年には経済学部設立に携わり同教授に就任する。なおこの時期、大正六年に起こったロシア革命の影響で、社会主義思想が学内にも広がっていたという。
日本棋院が設立されたのは丁度この頃である。渡辺は理事として定款の案の修正を任されている。
経済学部でマルクス派の助教授が結束するなど、学内の争いに嫌気がさした渡辺は職を辞し、昭和二年に東京商業会議所の書記長に就任する。翌年には専務理事になり活躍するが、政府・軍部の経済統制に反対したため、昭和九年に辞職を余儀なくされる。
その後は全国無尽集会所(全国相互銀行協会)理事長などの要職を歴任するが、日独伊三国同盟反対や対米戦争を批判し、昭和十九年に、「戦争はやめるべき」との発言を憲兵に密告され投獄されている。
戦後の昭和二十二年、反共主義の渡辺は強固な労働組織を持つ東宝の役員に望まれ社長に就任。経営再建のため翌年に社員の大量解雇を断行する。これに反対する組合員が砧撮影所に立てこもる東宝争議が発生する。東京地裁による占有解除の仮処分に従わない争議団に対し、渡辺はGHQに協力を要請し、警視庁予備隊や米軍による強制排除が行われている。この争議をきっかけに俳優やスタッフが新東宝を設立し、有名監督らも移籍してしまったため、東宝は一時期経営危機に陥っている。昭和二十四年に東宝会長に就任。また映画産業振興審議会会長などを歴任し、昭和五十五年に九十四歳で亡くなっている。
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