囲碁史記 第143回 幻の棋院会館
東華亭事件
東京大空襲で棋院会館が焼失して以来、中断されていた大手合は、昭和二十一年(一九四六)の春になりようやく復活する。
もちろん会館は無いので、神田須田町の料亭「お座敷本郷」や、牛込の河田町会館等を借りての開催となり、料亭では他のお客が酔って騒ぐ声が耳ざわりとなるが、とにかく碁が打てるのが何よりもうれしいと棋士達は言っていた。
そうした中、昭和二十二年(一九四七)春の大手合の第三回戦で事件が発生する。会場として使用していた上野の東華亭の主人、七条兼三氏が泥酔し、左手に一升びんを持ち、右手に日本刀の抜身をぶら下げて現れ、対局中の碁盤を片っ端から蹴飛ばしたのである。会場は騒然とし、豪傑として知られた藤沢庫之助でさえ窓を突き破って裸足で庭へ逃げ出し、庫之助の年下の叔父である藤沢秀行(後の名誉棋聖)も庭の隅で震えていたといい、長谷川章が、背後から必死に抱きつき、なだめたといわれている。
神聖な碁盤を足蹴にされて棋士たちは憤慨したが、七条氏が乱暴を働いたのにも理由があった。秘蔵していた春本を知りあいの棋士に貸したところ、借りた棋士が次から次と回し読みさせた挙句に紛失してしまい不満が高まっていた所に、別の棋士が東華亭で洋傘を紛失し、七条氏へ弁償するよう要求したことが引き金になったと言われている。もともと酒癖が悪い人物であったが、東華亭を好意で貸し、娘を下足番として動員するなど家族総出で協力してきたのに、こうした棋士たちの態度に我慢できなくなったのだろう。
騒動はこれだけでは終わらなかった。七条氏は上野を取り仕切る親分であり、親分が馬鹿にされたとして大勢の子分たちが集まり、徹夜で篝火を焚いて、柿ノ木坂の日本棋院を焼き打ちすべしと気勢を上げたという。さすがに、この時は七条氏が思い留まり焼き討ちが実行されることは無かった。
後年、七条兼三氏はアマ五段を申請しているが、この事件を問題とした棋士も多く、七条氏の昇段が数年遅れたということである。
東華亭事件が一つのきっかけとなり、棋士たちの間に何としても自前の建物を持たねばならないという機運が高まり、新会館建設へ動いていくこととなる。
溜池の棋院跡
当初、焼失した溜池の棋院に代わって仮事務所となる予定だったのは村島誼紀邸であったが、村島邸もまた焼失したため柿の木坂の岩本薫邸が棋院の仮事務所となった。岩本邸は二百坪の借地であったが、戦後、地主が税金を物納するため買取の打診があり、岩本は相場が坪二百円の土地を坪百円という格安で手に入れている。
そうなると焼失した溜池の棋院跡地も欲しくなってくる。跡地は鍋島侯の借地であり、首相官邸に隣接する一等地にあった。
当時の幣原内閣は終戦後のインフレに対応する緊急措置として預金の引き出しを制限する預金封鎖を実施していた。岩本は資金捻出のため、棋院の全資産である第一封鎖預金をすべて株式にかえることとした。株の売買は禁じられていなかったからである。
ところが、資金調達の準備を終え、昭和二十二年三月に鍋島家へ土地の買取を打診にいったところ、既に土地は税金の支払いのため政府へ物納していたことが判明する。
何とか溜池の土地を買い取りたいと考えた瀬越憲作は、大蔵省の池田勇人と交渉して土地を買い取ることに成功。資金は封鎖預金の全額で購入した松竹の株式を売って現金化したもので、坪当たり二百十円、総額三万八千円という格安で手に入れることが出来た。
後に内閣総理大臣となり、所得倍増計画を打ち出して高度経済成長の進展に大きな役割を果たしていく池田勇人は、戦後補償問題と財産税法創設に尽力し、この年の二月に第一次吉田内閣の下、大蔵次官に就任している。池田も囲碁の愛好家であり、瀬越の依頼に理解を示したのかもしれない。
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