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囲碁史記 第57回 本因坊丈策とその時代 秀和・因碩の激闘


 名人碁所の本因坊丈和は井上因碩(幻庵)と林元美による引き下ろし工作により引退に追い込まれている。丈和と因碩、この二人を中心とした名人碁所をめぐる争いについてはこれまで述べてきた。
 そして天保十年、丈和の引退により本因坊家の当主になったのが十三世本因坊丈策である。

本因坊丈策

 丈策は享和三年(一八〇三)に十一世本因坊元丈の実子として生まれる。幼名を宮重岩之助。
 十六、七歳、初段から二段の頃の棋譜が多く遺されており、その中でも多いのが同年代の間宮馬之丞と伊藤徳兵衛との棋譜である。間宮馬之丞は二歳上、伊藤徳兵衛は一歳上であった。
 伊藤徳兵衛は本因坊門下であったが、間宮馬之丞に関しては資料が無い。間宮姓であることから九世本因坊察元(本姓間宮)の関係者であろうか。両者との対局はそれぞれ三〇~四〇局程見られる。同年代でもあり、丈策のよき競争相手であったのだろう。
 伊藤徳兵衛は遠州(静岡県)三沢村の出身で、後に地元に帰っている。間宮馬之丞は、この頃の丈策との棋譜は多く見られるものの、その他には見当たらないことから、若くして亡くなったのかもしれない。
 丈策は学究肌の文人で博識棋界一とも称されている。囲碁の実力的には丈和の跡を継ぐには実力不足だったとも言われているが、丈和は師である元丈の恩に報いるため後継者にしたのではないかとも言われている。本命として、次の世代の土屋秀和に期待をもっていたと考えられ、丈和は引退時に当主となった丈策の跡目に二十歳の秀和を決めている。
 丈策は天保五年(一八三四)、三十二歳のときに六段で跡目となる。そのとき初出仕した御城碁では服部雄節に負けているが、翌年の安井知得仙知との対局では「丈策一生中の好局」と評価される碁で勝利している。

幻庵因碩と秀和の対決

 丈和が引退したことにより、当然、因碩は名人碁所願を幕府へ提出している。そして丈策は、これに異を唱えている。これについて『坐隠談叢』には次のように記されている。

 丈策に対し、因碩をして願の通碁所たらしむべき様周旋するこそ同僚の本意なるに、却て争碁を望むは不都合の至りにて其身の不為ならんと威喝し、丈策の申分立たざるに至れり。然れども、丈策は事家の安危に係るを以て大に決心し、古例を引きて論難已まざりければ、役人も遂に之を作くる能はず、書面を月番の寺社奉行に進達せり

 当初、因碩の根回しもあり、役人は丈策の異議を受け付けなかったが、やがて拒むことができず問題は寺社奉行まで上げられる。そして、天保十一年六月、幕府は因碩の相手一人を選んで争碁を仰付けると申し渡している。そして、丈策は自身は因碩と戦うには力不足だと認めていたのであろう。このとき、跡目の土屋秀和を対局者として指名した。
 争碁を避けたかった因碩であるが、打つならば古来名人争碁を跡目が打った例は無いとして当主の丈策との対局を主張、これに対し丈策は「自分因碩と手合仕らず候ては不本意の処、家督の身分にて部屋住みの者差し出し候こと、心に恥ず可き儀に候」と手稿にあり、自分では勝てないと悩み、期日が近づくにつれ疝癪(胸、腹部が差し込んで痛む病)を起こして引きこもってしまったという。
 さすがに見かねたのか、寺社奉行稲葉丹後守は秀和と因碩を役宅に呼び、次のように言い渡している。

井上因碩、秀和
右越前守殿え伺の上、手合仰付られ候。尤も一手合四番と取極め、二個月を限り、自宅に於て打ち申さるべく候事


 老中水野越前守忠邦にも相談した結果、両者の四番勝負を稲葉丹後守の屋敷にて行うというものである。
 手合いは八段の因碩と七段の秀和であるなら通常先相先であるが、四番ということは三局セットの先相先ではなく、秀和の先での手合ということになる。これで打ち分けるようであれば、丈策、秀和の異議を取り下げ、因碩を名人碁所とするということで因碩を納得させたと思われる。
 秀和の挑戦は名人碁所になるというものではなく、因碩の名人碁所を阻止するというものであった。名人碁所であった丈和を引きずり下ろす意図のあった五年前の松平家の碁会における丈和と赤星因徹の対局と、名人碁所を狙う因碩を阻止するという違いはあるが構図は似ている。当時と逆の立場であるが、当主に若手(跡目や弟子)が挑むという状況では、格上は勝っても褒められることはなく、むしろ負けられない戦いであった。
 このとき因碩は四十八歳、秀和は二十一歳である。二人の対局は前年に三局行われ、いずれも秀和先番で、三月に因碩六目勝ち、四月に秀和一目勝ちであった。十月には打掛局もある。
 第一局は天保十一年の十一月二十九日より始まっている。秀和は十一月十七日に行われた御城碁にも出仕しており、これが初の御城碁であった。このときの相手は安井門下の阪口仙得で白番の秀和が一目勝ちしている。因碩は対局が無かった。
 第一局は神田小川町の寺社奉行稲葉丹後守正守の屋敷で行われている。
 対局は巳の上刻(午前九時)に始まり、申の下刻(午後五時)まで打ち、刻限となったら夜間には持ち込まずそこで打掛として、勝負がつくまで日数に制限は無しという取り決めであった。
 この対局は十五日間を擁する非常に長いものとなった。一日目から順に、三十一手、四十五手、七十一手、九十一手と四日間でこれだけしか進まなかったのである。そして五日目、秀和が九十九手を打った後に因碩は口から血を吐き倒れてしまった。これにより打掛となり五日間の休止となっている。再開されたのは十二月九日であるが、一〇五手の後に再び因碩は血を吐き昏倒してしまう。このため十日は休みとし、再開された十一日は一一七手で打掛となる。そして、翌十二日は申の刻になっても打掛にならず、「奉行所の都合もあり、これ以上は日数がかけられない。最後まで打って決着をつけるように」と申し渡された。徹夜で打継ことになり、ようやく勝負がついたのは翌十三日の巳の中半刻(午前十時三十分頃)であった。結果は二六四手で先番秀和の四目勝ち。盤上で戦ったのは九日間だが中断を加えると十五日に及ぶ激闘であった。

黒 本因坊秀和 白 井上因碩(幻庵) 二六四手黒四目勝ち
(天保十一年十一月二十九日~十二月十三日 稲葉丹後守邸)

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