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囲碁史記 第62回 秀策の成長そして跡目へ


秀策への改名

 天保十一年、栄斎は出府以来二年半ぶりに帰国している。帰国の時期は初夏ではないかと思われる。東海道を通って山陽道へ。往路の打碁は発見されておらず、付き添いは誰であったのかなど、道中の記録は残されていない。
 帰国した栄斎は直ちに浅野忠敬に謁見し、江戸の生活を報告したのだろう。栄斎が頭角をあらわし「安芸小僧」と呼ばれていることなどはすでに故国に届いていた。忠敬は五人扶持を与え、広島藩の藩学教授坂井虎山について漢学を学ぶことを命じている。

初段の頃の囲碁姓名録(天保十一年)

 一年半後、栄斎は再び出府する。復路については大阪の中川順節との打碁がある。中川は井上門の五段で当時三十代の後半。この少し前に大阪に移住し、後進の育成にあたっていた。栄斎と中川はこのとき四局打って栄斎(二子)の全勝だった。後日、中川は向先でも勝てなかったろうと語っていたそうだ。その譜を入手した京都在住の河北耕之助(坊門五段)は、これが十三歳の碁かと感嘆し、碁を愛したと伝えられる仁孝天皇に献上している。天皇は石を並べながら大変喜ばれたと伝えられている。
 秀策の甥にあたる桑原寅次郎がまとめたとされる『本因坊秀策小伝』によれば、外之浦に帰着した秀策はまず桑原の本家浜本家にあいさつを済ませ、その後に帰宅するのが常だったという。さらに間を置かず、後援者の橋本竹下父子へのあいさつ、浅野忠敬への伺侯と続けている。こうした礼儀正しさは生涯変わることがなかった。
 栄斎が一年半も在郷したのはなぜか。浅野忠敬は初めは栄斎を公儀直轄の碁方へ育成しようとしたのではなく、あくまでも浅野家の人材として育てようとしていた。したがって一年余も経て再度出府させたのは、大切な修行期を郷土で無駄に消費させてはならぬという判断に過ぎなかったと推測されている。

 大阪での対局を経て、江戸へ着いた栄斎に二つの喜びが待っていた。一つは改名、一つは昇段である。
 天保十二年九月十一日、当主丈策は改名状をもって栄斎を「秀策」に改めさせた。浅野家からの預り弟子であったためそうした形式をとったものと推測される。丈策から「策」、跡目秀和から「秀」を与えられた形である。
 その五日後の十六日には二段格の証状が与えられた。免状でなく証状なのは碁所不在のときは免状を発行するためには家元四家の同職会議が必要だったからである。
 そして、翌十三年の五月からは太田雄蔵との連戦が始まっている。雄蔵は安井門だが秀策と数多く打っている。
 以前も述べたが雄蔵は江戸の生まれで、はじめ川原卯之助と名乗った。のち七段に進み、御城碁へ推挙されたが断った。秀策の打碁中、対雄蔵戦が最も多く残されていて、後年には三十番碁を打っている。
 秀策はどちらかといえば雄蔵が苦手だったらしい。天保十三年五月から十月まで二子から始まり先に打ち込んだのも束の間、四連敗で再び先二に打ち込み返されている。定先の手合となったのは十四年の九月である。
 秀和との勝負碁の後に名人碁所の願書を取り下げた十一世井上因碩(幻庵)が、この年の五月に機会を作って秀和と再戦するが秀和が勝利する。さらにこの年の御城碁でも再戦したが、これも秀和が勝っている。こうした碁界の緊張の中で秀策は着々と実力をつけていったのだ。
 少年秀策に胸を貸したのは雄蔵ばかりではない。雄蔵との連戦のあと葛野忠左衛門(丈和の長子、のち十二世井上因碩)が集中して対局し、その他にも服部正徹(井上門)や竹川弥三郎、岸本左一郎、真井徳次郎ら兄弟子がこぞって胸を貸した。
 天保十四年十月六日、秀策は四段に進められた。今度は正式の免状で「今般同僚会議を遂げ」の字句が入っている。
 安井家の当主九世算知とは昇段の直前に先で初対局している。算知は八世安井仙知(知得)の実子。太田雄蔵、坂口仙得、伊藤松和(松次郎)と並んで天保四傑と称された高手である。その算知も先で圧倒し、安芸小僧の評価はさらに高まったに違いない。

秀策流

 天保十五年、秀策は十六歳を迎えた。元日、秀和が打ち初めに秀策の先で一局試みる。その碁は打ち掛けとなったが、二月に再度先で試みている。秀和はこの頃はまだ跡目であったが、その跡を継ぐ者の第一候補として秀策の名が胸中にあったのではないか。
 先の二局目、秀策は俗にいう「秀策流」で立ち向かった。秀策流布石は、これまで葛野忠左衛門、太田雄蔵、鶴岡三郎助、岸本左一郎らに打っている。自信をもって兄弟子の胸を借りたに違いない。
 天保十二年に帰京して以来、秀策は一年に一段の割合で昇段していく。勝率は手許の譜で七割近い。

二度目の帰郷

道中での対局

 再上京から四年経ち、初段から四段に進んだ秀策は、天保十五年の夏過ぎに再び帰郷の途につく。この度の同行者は江戸生まれの兄弟子真井徳次郎である。徳次郎は二十一歳、御家人の出で丈和門人。二十三歳で没している。
 途中、東海道を下って遠州(静岡県)三沢村に着くと、秀策はここの出身の兄弟子伊藤徳兵衛と会い集中対局している。徳兵衛は十一世本因坊元丈の内弟子であった時期もあり、天保十年に五段を許されていたが、対局は秀策と互先で行われている。それはこの年の四月に出京した際、秀策は先々先で四連勝、互先になってさらに連勝していたからだ。
 地元での対局とあって徳兵衛は必死であったろう。三沢村では四局打たれているが、互いに先番を勝って打ち分けている。
 徳兵衛は生涯に四度名を変えているが、当時はみなしばしば改名していた。葛野忠左衛門にいたっては七度改名している。隠居すれば雅号を用いている。秀策の場合も五度の改名。桑原虎次郎からはじまり、安田栄斎、安田秀策、桑原秀策。もちろん本因坊秀策が一番長く、この頃の本因坊はまぎれもない姓であって、本因坊姓を名乗るには養子縁組が必要であった。
 秀策が前回帰郷したときは初段であったが、今回は当時としては稀少な四段での道中であり、そのためか行く先々で対局を要請されたようだ。徳兵衛との対局を皮切りに、伊藤松次郎、味田村喜仙、加藤隆和、真井徳次郎、宝泉寺、岸本左一郎、勝田栄助、中川順節、井上因碩(幻庵)などとも打っている。一種の武者修行である。
 徳兵衛は秀策の再上府のおり、もう一度袖を捕えて対局を挑んでいる。結果は秀策の三連勝となり、闘志を失ったのか、これ以後徳兵衛との対局はない。
 
 遠州を経つと遠江国を過ぎ尾張国に差し掛かる。ここは碁の盛んな土地であり、待っていたのは伊藤松次郎である。前回も紹介したが松次郎は後の松和である。名古屋に生まれ、加藤隆和とともに伊藤子元(十世本因坊烈元門下、五段)の門に入り、文化九年(一八一二)に上京して本因坊元丈の弟子となっている。五段に進み、いったん帰国したが、天保九年、本因坊丈和から六段を許されていた。松和と名乗り御城碁に出場するのはもう少し後のことである。
 松次郎は本因坊門となる前の秀策が初めて対戦した玄人碁打でもある。天保十一年に再度の出府を果たしていたが、郷里の人々の要請に応えて秀策との対局のために戻っていたのかもしれない。
 名古屋にはもう一人の高段者加藤隆和がいる。尾張藩士の子である隆和は松次郎とともに伊藤子元の門に入り、のち出府して本因坊門に転じているが、丈和門人とされていることから松次郎より出府が遅かったらしい。五段に進んだ後、名古屋に戻って多くの門人を育てている。
 隆和もまた秀策が滞在中に対局している。
 当時、大阪の中川順節、京都の川北耕之助など、各地にはレッスンプロというべき碁打がいた。隆和もその一人である。この後も秀策は東海道を往復しているが、その度に隆和は弟子たちに指導を受けさせている。

再会

三原城

 弘化元年(天保十五年改元)の十二月、ようやく郷里に帰着した秀策は諸方にあいさつを済ませ、年が明けてから浅野侯に閲見して昇段の報告をして加増されている。その後、江戸から同行してきた真井徳次郎と共に広島を訪れて二局打った。徳次郎はそのまま遊歴を続け、秀策は三原へ戻っている。
 郷里での秀策は日を定めて三原城に出仕し、藩主の相手や城内の武士の指導を行なっていたらしい。また、前回の帰国時と同じく勉学にも励んでいたのだろう。
 五月に入って最初の師である竹原宝泉寺葆真和尚と対局している。
 安芸国の有段者はこの頃わずか四人であり、葆真はそのトップに位置していた。漢学、書画にも通じ、碁の相手としてばかりではなく浅野忠敬の知遇を受けていたという。だからこそ忠敬も秀策の指導を依頼する気になったのだろう。秀策は葆真から受けた恩を終生忘れることはなかった。

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