囲碁史記 第82回 本因坊秀甫の誕生と急逝
明治十二年に囲碁界の第一人者である村瀬秀甫を擁し設立された方円社は長きにわたり家元と対立してきたが、明治十七年十二月から開始された秀甫と本因坊秀栄の十番碁を経て明治十九年七月に和解して両者が合流、十八世本因坊秀甫が誕生する。
前回は十番碁について取り上げたが、今回は秀甫の本因坊継承について取り上げていく。
秀甫社長時代の功績
まずは、方円社社長となった村瀬秀甫の功績について、いくつか紹介する。
級位制の採用
すでに紹介しているが、方円社は家元が離脱した際に社員の段位を剥奪したこともあり独自に免状発行に踏み切った。そして、段位制から級位制への転換を図っている。その際、従来の初段を九級に定め、その下に十二級まで三階級まで設けている。プロアマの区別がなかった江戸時代、初段を取る事さえかなりハードルが高く、初段であっても素人ならば囲碁の強豪と認識されていたが、級を拡大したことで所得が容易となり囲碁の普及に貢献することとなった。
方円社における級位制は秀甫の死後廃止され、再び段位制に戻されているが、十級から十二級は初級初段から三級初段として存続していく。現在の日本棋院ではアマチュアの能力に合わせて三十級くらい設けられているが、当時と制度は別物であるものの愛好者を増やすという観点では共通しているといえる。
国際化への貢献
幕末から明治にかけて多くの欧米人が日本を訪れているが、記録に残る形で最初に欧米人へ囲碁を教えたのが秀甫といわれている。
明治十五年(一八八ニ)に、東京大学の数学および薬学の講師として来日した、いわゆるお雇い外国人のドイツ人コルシェルト博士は、もともとチェスが好きで、明治六年に開催され日本政府が初めて参加したウィーン万国博覧会に出品された蒔絵の碁盤を見て興味を引かれたという。そして来日後、伊香保温泉で入浴客が対局しているのを見て、自分もしてみたくなり、またチェスの新聞まであるドイツであれば囲碁も流行るであろうと考えたという。
当初、博士は井上因碩に指導を求めたが、六十日間でという条件だったため因碩に断られている。そこで内務省の役人に相談したところ今の日本の国手である村瀬秀甫に頼んでみたらとアドバイスされたという。
早速、秀甫に相談したところ、外国に囲碁が広まることは喜ばしい事と快諾し、日々通って二時間づつ指導を受けたという。
日本人とは違う感性で、研究熱心な博士の上達は目覚ましく、帰国する頃には秀甫と六子で打てるほどになっていたという。いまならアマ五段くらいの実力である。
帰国後、コルシェルト博士は、秀甫から贈られた布石の図を数学の学会誌で発表したり、入門書を刊行するなど、ヨーロッパでの囲碁の普及に尽力している。昭和五年に初の囲碁留学生として来日したドイツの数学者デューバル博士も、コルシェルト博士の入門書で囲碁を覚えた一人である。
俳人としての秀甫
秀甫は囲碁以外に、盆栽作りも得意で、書もよくする風流人であった。
また、俳句も嗜んでいたが、これは俳人としても活躍していた小林鉄次郎の影響と言われている。
秀甫が詠んだ俳句をいくつか紹介する。
引汐のあとの広さや春の月
移りゆく旅や布団の長みぢか
海と山一夜替りや旅の月
片枝の頼みも折て松の雪
初汐や舟突き出す枕ばし
秀甫は社長として方円社を取り仕切り、一方で風流人としても精力的に活躍していた。しかし、あまりにも人の世話をしすぎるため、かえって人々に煙たがられ、ああまでしなければ名人になれるものをという人もいたと伝えられている。
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