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囲碁史記 第106回 本因坊継承争いと秀元の再襲


田村と雁金の対局

田村と雁金の対局(島津邸にて)

 本因坊秀栄逝去後、後継者の座を巡り争ったのが田村保寿と雁金準一である。共に方円社塾生から秀栄門下へ移っているが、雁金が方円社へ入ったときは、すでに田村は退社していたことから、二人が初めて対局したのは、坊社の棋士が行き来し始めた明治三十年十二月、田村二十四歳、五段、雁金十九歳、初段の時である。対局は方円社で行われ、手合割りは二子で始まっている。
 その後、二人は約二年間の間に方円社や四象会などで数局打ち、三十二年三月六日からは高田民子と犬養毅主催の十番碁が始まっている。十番碁で当初連勝した雁金は手合を先二に進めるが、その後、田村が巻き返し二子へと戻し、結果は田村の六勝四敗に終った。この間、田村は六段へと昇段している。
 また、雁金は明治三十三年二月三段、同年十二月には四段と立て続けに昇段している。そして明治三十八年三月には田村に対し通算四局勝越し、待望の先にまで漕ぎつけることができた。この対局の頃、雁金は方円社を退社し、本因坊秀栄門下となっている。当時二十七歳である。

作碁事件

 明治三十八年五月、秀栄門下となった雁金は田村と時事新報の手合を打っている。結果は持碁であったが、この対局は、新聞で講評するため本因坊秀栄が確認し、作碁、つまりあらかじめどう打つか決められた八百長であると激怒するという事態へと発展していく。
 この対局は四月二十一日に始められ打掛となり、五月一日に打継がれている。初日の棋譜には別段おかしな点はなく、二人は真剣に打っていたようだ。
 ところが打継後の内容に変化がみられ、秀栄は二人がわざと勝敗をつけず持碁へ持って行ったことを見破り激怒したのだ。
 実は打掛から打継の間には大きな変化があった。田村が七段へと昇段したのである。対局の間に段が変わるのは異例のことである。
 田村は打掛までの形勢があまり良くなく、雁金の成長が著しいとはいえ昇段した自分が手合で負けてはみっともないと悩んでいたとみられ、雁金へ勝負を譲ってくれと申し入れたといわれている。これに対し雁金は持碁ならばと応じ、このような対局が行われたのだ。
 作碁と見破った秀栄は、雁金を呼びつけ厳しく詰問している。

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