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囲碁史記 第60回 伊藤松和と名古屋・東海の碁打ち


 前回、天保四傑のうち、安井家の三人を紹介したので、残る一人、本因坊門の伊藤松和について述べていく。

伊東子元

 伊藤松和について語る前に、まずその師である伊東子元という人物について触れたい思う。
 伊東子元は名古屋(尾張)の碁打ちで、尾張において後進の育成に力を注いだ人物である。名古屋出身の伊藤松和も伊東子元によって育てられた一人である。

 伊東子元は明和八年(一七七一)に美濃国に生まれ、幼時から囲碁を好み、江戸へ出て十世本因坊烈元の門下になる。元の名を蜂三郎という。関西から九州を遊歴し、薩摩滞在中に琉球の碁士の上江州という者と対局して勝ち名を挙げた。享和年間から名古屋に住み、文政年間には三段に昇る。
 名古屋にて三十余名の有段者を育てている。伊藤松次郎(松和)と加藤隆次郎(隆和)の二人も鍛え、共に本因坊門下へ送り出した。子元自身は弘化三年(一八四六)の囲碁姓名録に五段と記載されている。
 修行中の寛政元年(一七八九)に、本因坊烈元と河野元虎の御城碁がジゴとなったが、棋譜を見た尾張在の服部太蔵が白一目勝ちと言ったとして、尾張藩から子元に手紙で問い合わせが来たことを林元美が記している。

伊東子元が眠る大林寺(名古屋市千種区城山町)
伊東子元の墓碑
建立者として伊藤松和と加藤隆和の名もある

 晩年は名古屋にある臨済宗總見寺の卓州禅師に参禅するなど悠然と過ごし、弘化四年に名古屋の自宅で死去する。大林寺に葬られ、翌年の嘉永元年には伊藤松和、加藤隆和により碑が建てられた。
 なお、数年前に大林寺へお参りしたが、墓碑にはヒビが入っていて、いずれ剝落することが懸念される。

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