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囲碁史記 第127回 万年劫問題

 


前回、昭和三年に行われた日本棋院の第二回大手合で万年劫問題が発生したことを紹介したが、もう少し詳しく紹介する。

第二回大手合

 昭和二年(一九二七)に始まった春秋二期の日本棋院大手合は、棋正社の雁金準一や、神戸で静養中の野沢竹朝こそいなかったが、名立たる棋士が東西に分かれ、高額な賞金を争う団体戦を兼ねた昇段戦であり、まだ本因坊戦や名人戦などが無い時代に世間の注目を大いに浴びることとなる。

昭和三年春期大手合番附

 第一回、春は鈴木為次郎組が優勝、秋は瀬越憲作組の優勝となり、昭和三年の第二回からは、関西棋界の重鎮、久保松勝喜代六段や棋正社から復帰した小野田千代太郎六段が参加し て、益々盛り上がってきた。
 この年の春には瀬越七段組が連覇を果たし。続く年秋の二回戦で打たれた瀬越憲作七段対高橋重行三段の二子局で発生したのが、いわゆる万年刧問題である。

万年刧問題の発生

 この秋の大手合で特に注目されていたのが瀬越七段である。過去三期に好成績を収めていた瀬越は、今回平均点が七十五点を越えれば八段への昇段を果たす事が出来たのである。
 九段は名人本因坊秀哉、八段は中川亀三郎のみという時代、瀬越が八段に昇るということは大事件である。七十五点はとてつもない高得点であるが、前年秋に瀬越は平均点八十六点強をあげた実績があり、昭和三年秋期第一局でも二子番で百点を叩き出していたことから、昇段はいよいよ現実性を帯びてきたのである。
 これに対し、坊門を中心とした西軍の宮坂、福田、 村島、前田、高橋らは、瀬越の八段昇進に待ったをかけようと必死になり、対局は異様な雰囲気が漂っていたという。

 そうした中、大手合も終盤近い昭和三年十月十一日、第六回戦で瀬越が対局したのが高橋三段である。

 実際の盤面ではないが、問題となったのは次のような状況である。
  1.盤面黒白ともに劫材なし。
  2.黒が「A」を継いで終局すれば黒負。
 以上のような状況で、黒の高橋は、この劫を継がず、瀬越もそれに応じてダメをつめたり、 自分の地に手を入れたりしていた。
 こうした場合、現行の日本棋院ルールでは、コウを取れる側がコウを取って継ぎ、計算をすることになっている。また、明文化はされていないが古来の慣例でもそのようになっていた。
 もし、瀬越が終局を宣言していれば、高橋に不満があっても大きな問題にならなかったろうが、催促がましい事を言うのは良くないと、自身もダメを打ったことで、碁はまだ終わってないと認めてしまう形になったという。
 そこで審査員の岩佐が、高橋に劫を継いで終局するよう促したが、隣席で対局中であった西軍副将格の久保松が、劫のある以上終局にならないから無勝負にすべきと主張し、高橋自身も普通に終局すれば当然自分の負けだが、ダメをつめて頑張っていたのだから無勝負とすべきだといって譲らなかったという。
 あきらかに黒の言い分に無理があると思われるが、石の死活、あるいは終局の定義については従来不文律で決められ、師匠より口伝されてきたため、そのルールの不備を衝かれ、結局、この日不在であった審査会長の本因坊秀哉も交えて協議するため、勝負の判定は日本棋院の一時預かりとなってしまった。
 ここまで問題が大きくなったのは、大手合が団体戦であったためと言われている。
 久保松は愛弟子の橋本宇太郎が東京へ出た際、瀬越に預けるなど関係は決して悪くなかったが、団体戦である故に、隣で聞いていて口を出さざるを得なかったのだろう。これが主将の鈴木為次郎であれば上手く収めただろうと言われているが、鈴木は長考派でまだ対局中であった。
 後に久保松は他人の碁に口を出したとして世論の厳しい批判を受け、「秋季大手合週報」の誌面で謝罪している。

裁定

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