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囲碁史記 第65回 秀策の死とその後 


御城碁十九戦全勝

 嘉永二年十一月十七日、二十一歳の秀策は初めて御城碁に参加し安井算知を相手に勝利した。
 御城碁は年に一度、江戸城において将軍御前(将軍が出座するのは稀である)で対局する大変名誉なもので、各家元の当主及び跡目、上手(七段)以上の打ち手しか参加できなかった。
 秀策はこの御城碁で前人未到の十九戦全勝を果たしている。その成績を記しておく。
 
嘉永二年 安井算知 黒番十一目
     坂口仙得 黒番中押し
嘉永三年 坂口仙得 黒番八目
     伊藤松和 黒番三目
嘉永四年 林 門入 黒番七目
     安井算知 黒番中押し
嘉永五年 井上因碩 白番二目
     伊藤松和 黒番六目
嘉永六年 坂口仙得 黒番中押し
     安井算知 白番一目
安政元年 井上因碩 白番中押し
安政三年 伊藤松和 白番中押し
安政四年 安井算知 黒番中押し
安政五年 坂口仙得 白番三目
安政六年 伊藤松和 黒番九目
     服部正徹 黒番十三目
万延元年 林 有美 白番四目
文久元年 林 門入 白番十一目
     林 有美 白番中押し
 
以上十九連勝
 
 この十九局中秀策がもっとも苦戦したのが、嘉永三年の伊藤松和戦であった。それに嘉永六年の安井算知戦も逆転勝ちだった。
 ただ十九連勝というと一見大記録のようだが、すべて互先の域を出ていなかった。置碁がないのである。碁聖といわれた道策や丈和も置碁がある。道策は負けたといっても一流の相手に二子置かせて一目負けであった。先で勝てる相手がいなかったということもあるが。
 しかし秀策は二子でもいいかもしれない相手に対しても向先で打っている。若い秀策に対しての対局者の意地かもしれないが、秀和が置碁をしないように裏から手をまわしたという説もある。

好敵手との戦い

太田雄蔵との三十番碁

 嘉永六年、秀策は生涯の好敵手太田雄蔵と三十番碁を打つことになる。雄蔵は安井門であったが秀策が江戸に来てからずっと鍛えてくれた人物のひとりである。秀策の遺されている棋譜は雄蔵とのものがもっとも多い。
 以前も紹介したが三十番碁のいきさつは、旗本の赤井五郎作の屋敷に碁打ちが集まった際、いま秀策と対等に打てるものはいないだろうというはなしになり、雄蔵がそれに同調できないと発言したことが発端らしい。雄蔵は御城碁には出仕していない。御城碁に出仕するためには剃髪しなければならなかったため、それを嫌って御城碁には出仕しなかったともいわれている。
 そのため、自分が鍛えた秀策と真剣勝負できる機会が少なく、自分と秀策は互先であったので秀策にかなうものがいないという意見に異を唱えたのである。
 赤井五郎作はしばしば対局の催主となっていたので五郎作が発起人となり三十番碁が企画された。

平河天満宮

 第一局は赤井五郎作の屋敷にほど近い、麹町の平河天神(平河天満宮)でおこなわれた。正確には神社に隣接する別当の龍眼寺である。
 この当時、秀策は二十五歳、雄蔵は四十七歳であった。
 十七局まで互先をたもった雄蔵だったが、ついに先相先に打ち込まれた。この三十番碁で雄蔵が白番で勝った碁はない。最終局となった二十三局で雄蔵白番持碁になったぐらいだ。
 三十番碁は二十三局で中断され、三年後に雄蔵は病死する。
 秀策は雄蔵の死を悼み慟哭したと伝えられている。その様子は『坐隠談叢』(明治に編纂された囲碁史をまとめたもの)によれば、「秀策その訃音に接するや、悲嘆好敵手を失いしを痛惜すること当年の不識庵(上杉謙信)の機山(武田信玄)を悲しみしが如し」と記している。

赤井五郎作

 三十番碁を企画した赤井五郎作とはどういう人物だったのだろうか。 旗本の赤井氏は元々、丹波地方の戦国武将であった。信長の時代には一族の赤井直正が、その勇猛さから「丹波の赤鬼」と恐れられ明智光秀の丹波侵攻の際に織田方と戦っている。直正の末裔にはタレントの赤井英和がいる。直正の甥(兄の子)である忠家はその後、豊臣秀吉に仕えている。関ヶ原の戦いでは石田三成の密書を家康に献上して東軍に付き徳川の旗本となる。家康の小姓を務めた息子の忠泰は通称を五郎作といい、その名が子孫に継承されていく。 江戸時代には赤井五郎作という名前がしばしば出てくる。明暦三年に書院番赤井五郎作忠秋が江戸麹町堤防工事の奉行に任命されている。享保十七年(一七三二)には将軍の命により目付赤井五郎作が会津藩へ行き藩政を査察している他、享保十年にも盗賊改としてその名が確認できる。赤井氏の当主が代々五郎作の名を継いだのか何代かおきか名乗ったのか分からないが由緒ある名前として受け継がれていったのだう。

御江戸番町絵図(嘉永2-文久2年)に 記された赤井五郎作の屋敷
赤井邸跡(精糖会館 千代田区三番町5-7)

 三十番碁を企画した五郎作は無役であったが、名門でもありかなり裕福であったらしい。囲碁好きで当時の棋譜で赤井邸が会場となったものが多く残されている。
 屋敷は御厩谷にあった。現在の千代田区三番町にある精糖会館が屋敷跡である。

最後の帰郷

 秀策が最後に帰郷したのは安政四年、二十九歳のときである。
 この帰郷は師の丈和の子葛野亀三郎(後の方円社社長中川亀三郎)を同道しての旅であった。
 この帰郷について三つの話題が残されている。

 一つは、後の方円社の異才水谷縫冶の発見である。
 伊予国出身の縫冶は七歳の時に今治城主松平壱岐守勝吉の御前で対局するなど囲碁の天才として知られ、十三歳の時に父に連れられ帰郷した秀策と対局。四子二局、三子で圧勝して江戸へ出る事を勧められたが、病弱を理由に父が断り、明治以降に村瀬秀甫の招聘で方円社に入っている。

石谷広策へ贈った「囲碁十訣」

 二つ目は、実家で石谷広策と対局したときに、有名な「囲碁十訣」を書き、広策に贈ったこと。
 広策は年上であったが本因坊門となったのが秀策より後のため弟弟子である。同じ芸州出身ということで色々面倒を見ていた。広策へ書き贈った「囲碁十訣」は唐の囲碁の名手、王積薪が造ったとされる格言で、秀策は座右の銘としていた。
 広策は明治期に秀策の顕彰活動を主導した人物で、秀策から贈られた「囲碁十訣」は広策が編纂出版した秀策の名棋譜集「敲玉余韻」に掲載されている。

 三つ目は、秀策が幼少のころ愛用していた碁盤の裏に文字を書き遺したこと。二つ目と三つ目のものは因島の本因坊秀策囲碁記念館に展示されている。

 秀策最後の帰郷の半年間は、中国地方はもちろん、四国地方にも足を伸ばし、各地の碁打ちたちと対局し、囲碁の普及と指導に全力を尽くしている。

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