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囲碁史記 第43回 本因坊元丈


元丈の出自

 名人の技量がありながら、名人となることのなかった「囲碁四哲」の一人である十一世本因坊元丈は安永四年(一七七五)、徳川家御三卿の一つ清水家の物頭役宮重八郎左衛門の四男として江戸に生まれる。徳川家御三卿は八代将軍徳川吉宗と九代将軍徳川家重により設けられたもので、吉宗の子(家重の弟)を祖とする家で、将軍家に後継ぎが無くなった場合はここから将軍を出すようになっている。徳川家康が御三家を創ったのに倣ったといわれている。
 まず、元丈が十世本因坊烈元の跡目となったときの新類書等の記録を記す。
 
  親類書
  養父 宮重一清[俗名甚左衛門]死
  実父 岡野権次郎 死
一、父[清水御館物頭相勤候節病死仕候]宮重八郎左衛門 死
一、母 私祖父 宮重一清 死、娘
[私兄宮重作十郎手前に罷在候]
一、兄[私父宮重八郎左衛門 死惣領、当時大御番小笠原近江守殿組與頭相勤罷在候] 宮重作十郎
一、兄 宮重半蔵[私兄宮重作十郎手前に罷在候]
一、兄[大御番長谷川丹後守組與頭、養父宮重伝六郎、実父宮重八郎左衛門 死三男] 宮重八十之助
一、姉[私父宮重八郎左衛門 死娘] 壱人
   [私兄宮重作十郎手前に罷在候]
一、妹[私父宮重八郎左衛門 死娘] 壱人
   [私兄宮重作十郎手前に罷在候]
一、甥[私兄宮重作十郎惣領] 宮重銕之進
一、甥[右同人次男] 宮重曽次郎
   [私兄宮重作十郎手前に罷在候]
一、姪[私兄宮重作十郎娘] 壱人
   [父宮重作十郎手前に罷在候]
 右之外忌懸り之親類無御座候
  寛政十午年七月
 [本国三河生国武蔵]宮重楽山[午二十二歳印]
 寺社御奉行所
 右之書付共相調七月廿日松平右京亮殿へ差出申候所、同廿五日呼出に付罷出候処、明後廿七日自宅内寄合へ罷出候様、尤願書御受取被成候旨御役人被申候、然処鳴物停止被仰出候に付内寄合相止候間、来月五日為伺罷出候様との儀に付、八月五日罷出候処、六日内寄合相延候間、七日五時松平周防守殿内寄合へ罷出候様、御書付にて被申渡候、七日に罷出候処、跡目弟子願之儀追て可被及御沙汰旨、右京亮殿被仰渡候。八月廿五日松平右京亮殿より明日中罷出候様被仰下候に付、廿六日罷出候処、御書付渡。
     本因坊
     宮重楽山
 右明廿七日五時、周防守内寄合被可被罷出候
  八月廿六日
 廿七日松平周防守殿内寄合へ両人罷出候処、宮重楽山跡目弟子願之儀申上る処、願之通被仰付の旨、右京亮殿被仰渡、難有仕合奉存候旨御礼申上、夫より御老若寺社奉行衆へ両人共御礼相廻申候、御礼廻りの節右京亮殿へ参御役人へ別段礼も申入候上、直に御目見願の書付御役人高木悠助へ相渡候、晦日伺に罷出候様との義に付罷出候処、御書付渡る。
       楽山
 明朔日六半時御城へ可被罷出候
  八月晦日
 翌九月朔日登城、御白書院御次扇子箱献上、名披露にて、御目見仕候、西丸へも扇子箱献上也、夫より例の通不残御礼、楽山相廻候事、同日右京亮殿へ書付差出候、左之通。
 今般楽山儀願の通私跡目弟子被仰付、其上御目見被仰付、重畳難有仕合奉存候、依之先格の通月次五節句其外惣出仕等にも仲間一同と罷出御礼申上候様為仕度奉伺候、以上。
  九月   本因坊

 
 『碁所旧記』にある元丈の記録である。
 元丈は若い頃、宮重楽山と名乗っていた。五人の兄姉妹があり、長兄の作十郎は大御番小笠原近江守の組与力を勤めた。

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