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囲碁史記 第58回 悲運の後継者 井上節山因碩


 数年前に囲碁史研究家の南雄司氏により神奈川県相模原市にて十二世井上節山因碩の墓が発見された。
 それまでの過程や節山に関する様々なことが分かってきたので、現地調査の内容もふまえて紹介する。
 これは南氏の大発見である。いや、これは囲碁界でこそ新発見と言われるが郷土史の書籍には載っているので本当の意味での新発見ではない。もっと早くに見つかっていてもおかしくないことであった。
 南氏はこの書籍を発見されて大変喜ばれた。南氏が追い求められていた謎の手がかりがそこにあったからである。しかもこの発見は新たな謎を生むことにもなった。 

節山井上家継承の経緯

 まず十二世井上節山因碩についてのこれまでの定説を述べねばならない。 
 節山因碩、いや、まずは幼名の梅太郎にしておこうか。梅太郎は碁聖と呼ばれた十二世本因坊丈和の長男として文政三年(一八二〇)に生まれた。「戸谷梅太郎」「戸谷道和」「葛野道和」「葛野忠左衛門」「水谷順策」「井上秀徹」「十二世井上因碩」「井上節山」、これは全て同一人物である。この名前の変化が梅太郎の人生を物語っている。
 梅太郎は幼少期から本因坊門とし順調に昇段を重ね、十三歳の時に剃髪して道和と名を改める。そして、その道和と同年で同じスピードで成長していったのが土屋秀和、後に十四世本因坊として囲碁界に名を刻む人物である。
 秀和は十九歳で六段になるなど目覚しい進歩を見せている。六段といっても現代の六段と一緒に考えないでもらいたい。当時の段は絶対で相当に認められなければ上がることはない。七段を上手といい、七段になれば御城碁にも出仕できた。現代で言えばタイトル戦を打っているようなものである。その一歩手前の六段に十九歳で到達したのは凄いということになる。将来的に本因坊家を背負って立つホープであった。
 一方、道和はというと、五段までは秀和と同時に昇段していた。丈和の長男ということもありサラブレットである。次代は秀和か道和と言われていたかもしれない。しかし、五段に昇った後に眼病を患い二十一歳までの間、治療のため囲碁から離れるという悲運に見舞われてしまう。そして、復帰してきたときには秀和は七段へ進み、さらに父である丈和は隠退、十三世として丈和の師・十一世本因坊元丈の実子である丈策が家督を継ぎ、秀和はその跡目、つまり将来の十四世本因坊に決まっていた。ライバルであった秀和との差は完全に開いてしまったのである。
 当主の道を断たれた戸谷道和は、父丈和のはからいにより還俗して葛野忠左衛門を名乗ることになる。この「戸谷」と「葛野」二つの姓についてであるが、以前も紹介したが丈和は本庄の豪商戸谷家の出として本因坊家の跡目になっているが、本当の姓は葛野であった。丈和は葛野の家に生まれたが貧しい家であり、幼少の頃から戸谷家へ丁稚奉公にあがっていたという。そのため、実力が認められ本因坊家の跡目となるときに格式という点で戸谷家の出身としてもらう。戸谷家としても幕府お抱えの本因坊家の当主が自身の家から出るのを名誉と思ったのであろう。丈和は実家を嫌っていたのか、実の子たちにも本当の出身地を知らせていなかったらしい。しかし、戸谷家の生まれではないということは伝わっていたのか、囲碁史書には不明とあったり様々な候補地が取りざたされ、丈和の出身地は研究者たちの一つのテーマとなっていた。そして現在では静岡県の沼津にある葛野家がそうだということで結論を得ている。
 話を戻そう。なので葛野忠左衛門の「葛野」というのは丈和の本姓ではあるが、なぜ戸谷姓を使っていたのにこの時期に葛野姓に戻す必要があったのだろう。具体的なことはわからないが、「坐隠談叢」によると陶家である葛野家の株を買って道和に与えたとあるので、たまたま本姓と同じ葛野の名を手に入れたので道和に名乗らせたということかもしれない。

六段 葛野忠左衛門(大日本囲碁姓名録 天保十一年)

 忠左衛門は尾張・美濃および中国地方を回り各地の強豪と対局しているほか、後に秀和の跡目となる秀策を鍛えた人物の一人でもある。「碁聖」「棋聖」と称された秀策も若いときには忠左衛門に苦戦を強いられていた。
 その忠左衛門に、天保十四年(一八四三)二十四歳のとき、水谷家への養子話が持ち上がる。水谷家は本因坊家の外家であり本因坊門の塾頭などをしていた。当時の当主は二代目の水谷琢順で養子としていた琢廉が天保七年に三十二歳で亡くなっていたので後継者として選ばれたのである。水谷家は分家ではないが格的にはそのようなものだと考えればいい。本因坊家の水谷家に対し、安井家には鈴木家、井上家には服部家があり、丈和のライバルであった幻庵因碩も元々は服部家の養子であった。
 正式に養子となった忠左衛門は水谷順策と名を改めている。なお、囲碁史関連の書には順策が養子となった年が天保七年となっているものが多いが、これは水谷琢廉が亡くなった年で、この時、直ちに忠左衛門が養子になったと勘違いされたようだ。しかし、この頃は病で囲碁から離れているため年代が合わない。先代の水谷琢順がまだ健在であったので、すぐには後継者は決めなかったようだ。
 なお、南氏の調査によると水谷順策の名が登場するのは天保十四年からである。この水谷家の後継問題について南氏により色々な事実が判明しているので後半に紹介する。
 こうして順策は水谷家の後継者となったが、翌天保十五年、二十五歳のときには井上家へ跡目として養子に入っている。当時の井上家の当主は、父である丈和と名人をかけて死闘を繰り広げた幻庵因碩である。井上家にも人はいたであろうが、幻庵から請われて養子になったという。囲碁・将棋を管轄する寺社奉行や周囲から両者の和解のためにという勧めがあったのだろうか。こうして順策は井上秀徹へ再び名を改め、嘉永元年(一八四八)、二十九歳で幻庵因碩の隠退により十二世井上因碩となっている。
 和解の意味があったのかもしれないが、秀徹が井上家の当主となったということは、本因坊家の当主となる秀和とは同格であり、争っていくことにもなる。自分の生まれた家と戦うというのはどういう気持ちであっただろうか。しかし一度は諦めた家元当主という座にどういう形であれなることができたという喜びもあったであろう。しかし、めでたし、めでたし・・・で終わらなかったのである。この後、因碩はとんでもない事件を起こすことになる。

妙円寺の惨劇


江戸時代の妙円寺(江戸名所図会 1893)

 嘉永二年、秀徹は門人嶋崎鎌三郎が妻と密通したとして嶋崎を斬殺する事件を起こす。事件の前からすでに周囲がその不審な様子を警戒するほど精神を病んでいたという。次々と養子に出されたり、人間関係が変化したりと心にかかる重圧が相当大きかったのであろう。そもそも眼病とされていた時期も本当は精神の病でそれを隠すためのものではなかったかという説もある。
 当日、遊興のため白金の妙円寺を訪れていた秀徹は、同行していた門人で武士である鎌三郎が付けていた刀を突然抜き切りかかった。重傷を負った鎌三郎は庭の池に飛び込み二の太刀をかわしたが即日なくなっている。
 こんな事件を起こすともはやどうにもならず、井上家は取り潰しの危機にさらされる。鎌三郎の弟は憤慨し仇討ちするよう父に訴えたといわれるが、嶋崎家は熊本藩細川家の重臣であった父は藩に仕える者が私怨で動いてはいけないとこれをなだめている。主家細川家は、かねて井上家の恩顧を受けていた。恩顧とはおよそ一五〇年前、細川家の相続に関し問題があったと幕府に目をつけられた際に、当時の四世本因坊道策とその弟二世井上因碩が動いた。二世因碩は井上家の屋敷を担保として金を用意し、本因坊門下であった牧野成貞を通して幕閣工作を行い細川家の危機を救ったということがあったのだ。鎌三郎の父は苦渋の決断であったろうが、この時、主家が受けた恩により、事件に目を瞑り内済とすることを決断している。
 しかし、当然ながら十二世因碩は隠居することになる。節山と号し、武州相原に幽閉され、療養生活を送っている。このとき三十歳である。
 事件後、林家の門人であった松本錦四郎が井上家を相続して十三世因碩となるが、その経緯は後日紹介させていただく。

妙円寺訪問

案内板


妙円寺境内
妙見大菩薩を祀る妙見堂

 事件があった白金台の妙円寺を訪れてみた。
 港区白金台・目黒区下目黒にある六ヶ寺から構成される「山手七福神」は、江戸時代より続く東京近郊では最古の七福神巡りの一つとして知られているが、その中で、日蓮宗寺院の妙円寺は幸福・財産・長寿を授ける「福禄寿」と、動物・生命・学芸・知恵の守護神「寿老人」を祀る寺としても知られている。
 囲碁史会会員である小澤一徳氏から提供された「江戸名所図絵」に妙円寺の絵があるが、実際に訪問してみると広くない、というより本堂があるだけの小さな敷地である。名所図絵のものは広く感じ、通りから本堂に降りてくる坂のようなものが描かれているが、現地にそれらしき坂があるものの、周辺は住宅や建物が密集している。恐らく本堂の周辺だけ残され寺域が縮小されてしまったのだろう。
 節山因碩は相原に幽閉され、後に病が癒えたのか江戸に戻ったといわれている。晩年、井上家を継いだ井上松本因碩と対局したが、すでに当主時代の力は失われていたといわれ、安政三年に三十七歳で亡くなっている。
 
 これが井上節山因碩の定説であり、これまでの書籍にもこう記されている。

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