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三国志の囲碁③ 呉


 三国時代における呉は初代皇帝の孫権により建国されるが、その基盤は父の孫堅、兄の孫策が築き上げたものである。
 今回は呉における囲碁のはなしを紹介する。

孫策・呂範の対局譜

孫策・呂範の対局譜

 呉の囲碁というより三国時代の中で最も注目されるのが、「孫策・呂範の対局譜」である。これは中国最古、つまり世界最古の碁譜として約七〇〇年後の宋の時代の棋書『忘憂清楽集』に収載されている。
 孫策と呂範には対局の逸話が残されている。
 軍の規律の緩みを憂いていた呂範は、孫策との対局中に、自分を全軍を統率する都督にするよう申し出る。孫策は返事をしなかったが、呂範は退出すると軍服に着替え、勝手に都督を自称したため、孫策はしかたなくこれを認めた。そして、呂範の働きにより軍の規律はよく守られるようになったというもの。
 この棋譜はそのときのものといわれているが、これはまったくの作りものであるというのが大勢の意見である。
 この時代、しかも高名な棋士でもない素人の棋譜を採る習慣があるはずもなく、七〇〇年経っていきなり出てくるはずがない。
 確かにその通りであろう。こういった棋譜は後の日本でも日蓮の棋譜や武田信玄の棋譜などというものがあり、後世の作りものとされているが、これも同じ類のものであろう。棋譜は四十三手まで。孫策が黒と思われる。中国では白と黒を隅に置き、白番から打たれていた。

呉の丞相・顧雍の逸話

 呉の二代目丞相である顧雍こようには次のようなはなしが残されている。
 予章の太守をしていた息子が亡くなったとき顧雍は碁を打っていた。予章から使者が来たと告げられたが、息子の手紙は無いということであり、顔色には出さなかったが、心の中ではその訳を悟って爪で掌を刺して、流れた血が敷物を染めていたというもの。

陸遜

 顧雍の跡を継いで呉の丞相となった陸遜も碁を打ったという。
 孫権の命で襄陽を攻めた際、陸遜の腹心である韓扁が魏軍に捕らえられ、呉軍の内情が知られてしまうが、早期撤退を求める諸葛瑾に対し陸遜は何も答えず、泰然として部下と碁を打っていたという。
 実際は魏軍が要害の地を固めていたため撤退が困難な状況にあり、それを部下に悟られないために、わざとのんびり過ごしながら諸葛瑾と退却策を練っていたといわれ、見事退却を成功させている。

諸葛瑾の子、諸葛融

 呉の重臣である諸葛瑾は、蜀の天才軍師・諸葛亮の兄である。魏にいる従弟の諸葛誕も名声を得ていたことから、世間では「蜀はその龍(諸葛亮)を得、呉はその虎(諸葛瑾)を得、魏はその狗(諸葛誕)を得たり」と評していた。諸葛瑾もまた碁を打っていたと言われる。
 諸葛瑾自身の逸話ではないが、跡を継いだ息子の諸葛融は、楽しく遊ぶ事に長け、自邸を碁をはじめとする遊戯の場として提供していたという。宴会の前に双六・囲碁など客の得意とするところを調べておいて、同等の技量の対戦相手を用意していたといい、自身は遊びを見ているだけで一日中飽きることがなかったと言っている。周囲から慕われていたが、反面、あまりに贅沢で生活能力に欠けていたのか、政変によって生き残りの道を探ることが出来ず毒を飲んで死んでしまう。

棋聖 厳子卿、馬綏明

 呉には厳子卿、馬綏明という高段の打ち手もいた。二人とも相当な棋力を有していたといわれる。
 特に厳子卿(厳武)は、当時の呉において「江南八絶」(呉興八絶)と呼ばれた優れた八人の文化人(達人)の一人とされている。
 馬綏明(別名馬朗)については呉の著名な碁打ちということ以外、詳しいことは分からないが、記録によると両者について「囲碁の敵する者なきは之を棋聖という。故に厳子卿と馬綏明は今より棋聖の名あり」とある。棋聖(碁聖)という言葉が登場する最初のものかもしれない。

囲碁を嫌った皇太子孫和

 ここまでは囲碁が盛んであったことを述べてきた。しかし、孫権の子であり皇太子であった孫和そんかは囲碁を嫌っていたと言われている。『三国志呉書』の「孫和傳」に孫和の考えが書かれている。
 
当言、当世士人、宜講修術学校習射御、以周世務、而担交游博弈、以妨事業非進取之謂、後群寮侍宴言、及博弈以為妨事、費日而無益、於用労精損思、而終無所成、非所以進徳修業積累功緒者也、且志士愛日惜力、君子慕其大者高山景行、恥非其次、夫以天地長久、而人居其閒、有白駒過隙之喩、年歯一暮栄華不再、凡所患者在於人情所不能絶、誠能絶無益之欲、以奉徳義之塗、棄不急之務、以修功業之基、其於名行豈不善哉、夫人情固不能無嬉娯、嬉娯之好亦在於飲宴琴書射御之間、何必博弈然後為歓、乃命侍坐者八人、各著論以矯之、於是中庶子韋曜退而論奏、和以示賓客、時蔡穎好弈、直事在署者頗斅焉、故以此諷之
 
(訳文)
当に言う、当世の士人よろしく学芸を講修し、射御を習い、もって世務をあまねくすべし。ただし博弈のものと交游し、事業を妨げるは進取の謂にあらず、と。のち、群寮宴に侍して言う、博弈におよぶは、事を妨げ、日を費して用に益なく、精を労し思を損じ、成るところなし。徳を進め業を修め功緒を積累する所以のものにあらざるなり、と。且つ志士は日を愛し力を惜しむ、君子の大を慕うものは高山と大なる道。その次にあらざるを恥ず。それ天長く地久し、人その間に居る、白駒が隙を過ぐるの喩あり、齢ひとたび暮れば、栄華再びせず。凡そ患うところは、人情の絶つ能わざるにあり。能く無益の欲を絶ち、もって徳義の塗を奉じ、不急の務を棄てて功業の基を修むれば、その名行において豈に善からずや。それ人情もとより嬉娯なき能はず、嬉娯の好、また飲宴琴書射御の間にあり、なんぞ必ずしも博弈してしかるのち歓をなさんや、と。即ち坐に侍するもの八人に命じて各々論を著はしてこれをためしむ。ここにおいて中庶子韋曜、退きて論じ奏す、孫和もって賓客に示す。時に蔡穎、弈を好み、直事署にあるもの、すこぶるさとる。此をもってこれを諷せしなり。
     『囲碁語園・下』増田忠彦著(大阪商業大学アミューズメント産業研究所)訳文引用
 
 また、孫和が韋曜に奏伸させた「博弈論」が『文選』に記されている。
 
今世之人、多不務経術、好翫博弈、廃事棄業、忘寝与食、窮日尽明、継以脂燭。当其臨局交争、雌雄未決、専精鋭意、神迷体倦、人事曠而不修、賓旅闕而不接。雖有太牢之饌、韶夏之楽、不暇存也。至或賭及衣物、徒棊易行、廉耻之意弛、而忿戻之色発。然其所志、不出一枰之上、所務不過方罫之閒。勝敵無封爵之賞、獲地無兼土之実。技非六芸、用非経国。立身者不階其術、徴選者不由其道。求之於戦陣、則非孫呉之倫也。考之於道芸、則非孔氏之門也。以変許為務、則非忠信之事也。以劫殺為名、則非仁者之意也。而空妨日廃業、終無補益。是何異設木而撃之、置石而投之哉。且君子之居室也、勤身以致養、其在朝也、竭命以納忠、臨事且猶旰食。而何暇博弈之足躭。夫然故孝友之行立、貞純之名章也。
 
方今大呉受命、海内未平。聖朝乾乾、務在得人。勇略之士、則受熊虎之任、儒雅之徒、則処龍鳳之署、百行兼包、文武竝騖。博選良才、旌簡髦俊、設程試之科、垂金爵之賞。誠千載之嘉会、百世之良遇也。当世之士、宜勉思至道、愛功惜力、以佐明時、使名書史籍、勲在盟府。乃君子之上務、当今之先急也。夫一木之枰、孰与方国之封。枯棊三百、孰与万人之将。袞竜之服、金石之楽、足以兼棊局、而貿博弈矣。仮令世士移博奕之力、用之於詩書、是有顔閔之志也。用之於智計、是有良平之思也。用之於資貨、是有猗頓之富也。用之於射御、是有将帥之備也。如此則功名立、而鄙賎遠矣。

 
(訳文)
 今の世の人々は、学問に身をいれず、ひたすら博弈に夢中になっている。仕事もせず、寝ることも食べることも忘れ、日の暮れるまででは足りず、はては夜に明かりを灯してまでやっている。対局して互いに争い、勝負がなかなか決まらないときには、精神を集中し、心をとぎすまし、神経がいらだち身体がだるくなるまで続け、日常のなすべき務めもせず、客人が来ても接待もしない。太牢の美味しい料理が出され、韶や夏の美しい音楽が奏でられても、心に留める余裕もない。あるいは、衣服や物を賭けた場合は、棋石が取られたり、次の一手を変えようとしたりすると、廉恥の気持ちがなくなり、怒りの色があらわになる。
 しかし、その目的は、一つの棋盤の外には出ず、努力は棋盤の目の間だけのものである。敵に勝っても封爵の賞賜はなく、敵地を奪っても実際に広い土地をもらえるわけではない。その技術は六芸の一つでもなく、そのはたらきは国を治める足しにもならない。その技術によって立身した者はいないし、その道によって挙用された者もいない。戦陣において博弈の戦術を応用しようとしても、孫子や呉子の兵法にはかなわない。学問として考えても、孔子一門の中に入れない。相手とのかけひきや、相手をあざむくことが務めであるから、忠信ということとは関係がない。劫とか殺などという呼び方をすることから、仁者の心があるのでもない。かくして、むなしく日を過し、仕事もせず、結局なにも利益になることはない。これでは、木片を置いてそれに当てたり、石を置いてそれに当てたりする遊びと、どこに変りがあろうか。
 君子は、家にいるときは、身を粉にして働いて父母に孝養を尽くし、朝廷にいるときは、才力を尽して真心こめて国のために勤務し、重大な仕事の場合にはさらに食事を遅く取るものである。とすれば、博弈にふける暇などあるであろうか、まったくないはずだ。このようにして、孝友の行いが実行でき、貞純の評判が広まるのである。
 
 今日、呉は天から命を受けたが、天下はまだ治まっていない。わが聖天子は日夜怠らず、よき人材を求めておられる。勇略の士は、武官としての任を受け、学問教養のある者は、文官としての部署におり、どのような能力の者でも受け入れられ、文武がともに務め励んでいる。広く良材を選び、俊英を抜擢しようと、各種の試験を設け、恩賞が下賜されている。まことに千年に一度のよい機会であり、百年に一度の幸運といえよう。今のこの時代にめぐりあった士は、国のための最善の方法を考え、業務を大切にし、無駄なことに力を使わず、この平和なときに天子を補佐して、その名を歴史にとどめ、勲功が役所に記録されて保存されるようにすべきであろう。これこそが、君子の最上のつとめであり、当今真っ先になすべきことである。
そもそも、一木で作られた棋盤は、四方の国の封地と比べられようか。また、木製の棋石三百は、一万人をしたがえる将と比べられようか。龍を刺繍した高官の服や、金石の音楽は、棋局よりもすばらしく、博奕と交換するほどの値打ちをもっているのである。
 もし、世の人々に、博弈に費やす精力を移して、『詩経』や『書経』の勉学に用いさせたならば、顔回や閔子騫のような志を持つようになるであろう。またその精力をはかりごとに用いさせたならば、長良や陳平のようなすぐれた智謀をもつようになるであろう。またそれを蓄財に用いさせたならば、猗頓のような富を得るようになるであろう。弓や乗馬に用いさせたならば、将軍のそなえができるであろう。このようにすれば、功名が立ち、貧賤からも抜け出すことができるのである。
                                   (訳文引用前同書)
 
 囲碁が盛んな時代だったからこその論であろう。孫和は家臣、大臣たちが囲碁に熱中するあまり国事を疎かにするのではないかと危惧を抱いていた。孫和は囲碁をする余裕がなかったというより、これはもう、囲碁を目の敵にしていたようで、かなりの貶し方である。
 父の孫権は「国威盛んなれば碁もまた興る」と言っていて、それを考えれば大変な違いである。これにより呉の囲碁人口は減少したのであろうか。それとも隠れて、いや堂々と囲碁を楽しんでいたのであろうか。
 孫和傳に出てきた蔡穎という高官は囲碁を好みよく打っていたという。同じ役所の部下たちも彼に倣い碁を打ったということで、孫和は「囲碁などやっても意味はない」とこのグループを攻撃している。
 孫和は兄の死により皇太子となるが、異母弟の孫覇を太子にしようとする一派との対立が激化、その抗争は十年にも及び、その結果、孫権は孫和を廃嫡し、孫覇へは自害を命じている。そして、新たに末弟の孫亮が太子となるが、孫権の死後、幼い孫亮が即位すると、家臣同士の権力闘争が激化し、呉は崩壊の途をたどることになる。

囲碁と仏典

 最後に孫和が囲碁を嫌っていたことに関連して、三国志の人物たちに関することではないが、三国呉から南北朝時代、隋にかけての「仏典」の中に見られる囲碁の記述について紹介する。
 仏典は広義には経・律・論から構成されている。経は釈尊の語録、律は原始仏教教団の戒律、論は経に関する注釈書を意味する。囲碁の記事を記載した経典は大乗仏教の代表的な経典にはなく、知名度の低い経典に限られ、囲碁に沈溺するのは修行の妨げになると禁止すべきものの例に挙げられている。
 なお、仏典中の経に囲碁の記事があるからといって、それが釈尊時代のインドに囲碁があったとするのは早計であると中国囲碁史に詳しい香川忠夫氏は述べている。現在のインドから中国を経由して日本にもたらされた仏典は大乗仏典と呼ばれ、釈尊の語録という形式と伝統を持っているが、実際には西暦紀元以後に創作されたものである。


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