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小川にて

 水に関する思い出はたくさんある。
 南カリフォルニアを歩いて、水にたいする認識は根本的に変わってしまったといってもいい。乾燥地帯で水を飲んだときの満足感は、他のどんなものとも違っているのだと思う。

 ようやくたどり着いた小さな窪地の、藻が紛れ込んで少し緑がかった水も、羽虫が浮かんだウォーター・タブの水も、岩肌から染み出すかすかな水の筋も、どれもこの上なくうれしかった。
 シエラ・ネバダの水が豊富な場所では、乾燥地帯にあったような幸せを味わえないことを、贅沢だとは知りながら、少し残念に思っていたものだ。

 赤茶けた大地を、幅二メートルほどの浅い流れがゆるやかに横切り、簡素な木の橋がかかっていた。そのまわりで、同じグループなのだろう、若い三人の女性が岸に休んで、濡れた長い髪を整えている。
 そんな光景に出会ったのは、出発から数日たち、ハイキングの生活のリズムに少し慣れはじめたころだった。
 とても美しい光景だった。荒野の水辺に憩う彼女たちの姿は、なにか崇高な宗教画のようだと思った。
 僕はどきりとして、見咎められるのをおそれるように、なぜか後ろめたい気持ちで、足早にその場をあとにした。
 思えば、そのときに彼女たちから感じた無防備なものが、近寄りがたくさせたのかもしれない。

 泥まみれの手が清流の中で洗われていくように、自分の中になにか純粋なものを見つけ出したくて、僕はこの旅をはじめた。護られていない自分、ありのままで、自由なもの・・・でも、それは結局、どうなったのだろう。

 この何でもないトレイル・ライフの断片が、今でもとても眩しく、思い出の中にある。僕はまだ、あの川べりの景色を一幅の絵のようにして、記憶の中に飾っているような気がする。


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