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ハットクリーク・リムの1日

 人間の背よりは大きいとはいえ、若木ばかりの松林に入ると、まるでミニチュアの国に迷い込んだような気分になる。

 小さいころあそんでいたレゴブロックでは、樹木は人形に対してこんなサイズだった気がする。松の木の他にブッシュがぼこぼこと散らばっているばかりの、だだっ広く起伏のない大地はそれでなくても、これまで自分が培ってきたスケール感というものをゆさぶってくる。

 山火事で燃えたあとのトレイルは何度も目にしてきたが、はっきりと再生しつつある林を歩いたことは、多分なかった。それぞれが、ひたむきに、高い木に邪魔されず育っていくところ。焼けてしまった木々はもうすっかり砕けて大地に撒かれたのか。生き延びた古い大木は低くながれる雲の下で所在なさげに風に揺れている。
 ロング・ディスタンス・ハイキングということを振り返るとき、いつも思い出すのが北カリフォルニアのハットクリーク・リムとその周辺の景色だ。

 とくに何もなかった。でも、なんて広い大地なんだろう。途方もない距離をへだててかすむ山々。見渡すかぎりの一面に空からばらまかれたような松の木と、あとは乾いた地表が露出している。その大地から奇妙に高くせりあがり、ずれた崖となって延々と続いているへりの上を、ずっと歩いていく。

 こういうところで水を得るチャンスはすくない。
 谷底にあるらしい水場をめざして、トレイルの脇にバックパックを下ろし、ソフトボトルを入れたサコッシュと、手にもボトルをもって、深い谷を駆け足でおりていく。はたして水はちゃんと流れていて、”カウ・ポンド(牛の池)”とGPSマップに表示されている放牧地の謎の水たまりをあてにしなくて済んだことに安堵した。

 水場からの帰り道はいつも早く感じる。
 かの『遊歩大全』でコリン・フレッチャーも書いていたけれど、バックパックを背負っていないときは、体の一部をおいてきたような気がして落ち着かないものだ。だからトレイルに戻ってバックパックを見つけたときには、ちゃんと自分を待っててくれたことが健気に思え、愛情を込めて挨拶してやりたくなるのだ。
 そして、ボトルに満タンの水で重たくなったバックパックを背負うと、自分のエネルギーまでなんとなく、充電されたような気もちになる。

 夕暮れの前はいちだんと空が広くみえた。なだらかな地平線をのぞむ丘のうえにアンテナの施設が立っていた。蚊にたかられながらツェルトを広げて、フェンスの隣に、それほど快適でもないキャンプをつくった。

 こうしてハイキングの一日が終わる。もう普通のことで、刺激はない。それでも、決まったことのように日がな一日ただただ歩き、こうやって夕暮れを眺めている時間には、変わらない穏やかな美しさがあった。

 ハイキングしている間は、ハイキングという現実が目の前にひろがっていて、僕はそれを喜んだり、ときどき不満に思ったりしながら、日々を過ごしてきたのだった。
 PCTの何が懐かしいのだろう。
 それはただ歩く僕を生かしていた、あの日々のリズムだったり、するのだろうか。

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