1995.1.17

この日、みなさんはどこで何をしていましたか?

私は当時、東京で暮らしていました。前年の春に東京転勤の辞令を受け、中央線の荻窪駅近くの狭い2DKから、八王子のオフィスへ通勤する日々を送って間も無く1年になろうとしているところでした。

朝、6時過ぎに起床し、ダイニングにあるテレビをつけ、お湯を沸かして・・・、といつもと全く同じ動作をしていた私の目に飛び込んできたのが、煙をあげる街を空から撮影している映像、続いて倒れている高速道路。
これはどこの国の映像で、何が起こっているんだろう?
私の目がどれぐらいの時間、画像に釘付けになっていたのかわからないけれど、やがて耳に「神戸市長田区上空」、「阪神高速道路」、「未明に発生した地震」などの言葉が届きました。
神戸市・・・。一年前、私が東京に転勤するまで住んでいた街。
今、目の前のテレビに映し出されている映像が、同じ時間に500キロ離れた場所で現実に起こっていることだとは、とうてい信じられませんでした。

私はすぐに奈良の実家に電話しました。
4回ほど呼び出し音が鳴り、母の声がしました。
私が名乗ると、「どうしたん、こんな早くに」と戸惑う母。
両親が無事だった安堵。
「今朝、大きな地震があったでしょう?」
「怖かったよ〜。あんな強い地震、これまで経験したことなかったから」
「テレビ観てる?阪神高速が倒れてるよ」

その時、関西地域のテレビ局は、被害の映像がなくただスタジオから地震についての情報をアナウンサーが語っているだけだ、と母が言っていました。
東京にいる私が、実際の様子を観られていることが不思議でした。
やはり、出勤の支度をしていた父に、母が「阪神高速が倒れているらしいよ」と告げると、「そんなアホなことあるか、あの程度の地震で高速道路が倒れるなんて」と言う父の声が受話器の向こうから聞こえました。
父はゼネコンに勤めていたので、地震で建物が倒壊するなんて考えられなかったそうです。

その日、どんなふうに1日を過ごしたのか覚えていません。当時はもちろんスマホなどないし、パソコンもインターネットもないので、会社が終わると急いで帰宅してまたテレビに見入って、神戸がどうなっているのかを知ろうとしました。
そして、再び実家の電話番号をダイヤルしてみましたが、朝のように一度で繋がることはなく、何度かかけ直してようやく聞き慣れた呼び出し音が鳴りました。
電話に出た母は、その日一日テレビの前にいて、地震の全容が見えてきたらしく、神戸に住む彼女の友人たちに安否の電話をして欲しい、と私に頼んできました。
奈良からでは神戸に電話が繋がらず、東京からだと繋がるのではないか、と言って。
母の友人と親戚数人の電話番号をメモり、順番に電話をかけてみました。
またまた一度では繋がらない場合もありましたが、根気よくダイヤルして全員と話しができ、幸いみんな無事だとわかりホッとしました。

出社した父も、阪神間から社員が出勤して来ないし、神戸方面から大阪に来る交通手段が壊滅的だと聞き、私が言っていたことが嘘ではなかった、と納得したそうです。

この地震が、淡路島にある断層のずれによるものだったというのは後日わかるわけですが、神戸市から西宮にもたらした被害はあまりに大きく、私が1年前まで住んでいた灘区のマンションは倒壊こそ免れたものの、ライフラインは約1ヶ月不通だったそうです。

また、この地震をきっかけに「西日本では大きな地震は起こらない」という私の意識は大きく変わりました。
直接の知り合いで震災の犠牲になった人はいませんが、震災が原因でその後の人生が変わってしまった人は何人もいます。
私自身も、ずっと神戸か奈良で暮らしてきていたのに、たまたまその10ヶ月前に東京に引越し難を免れたことが、心のどこかに引っかかっています。

爪痕は、街にも人々にもまだ残り続けています。


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