「虚空教典」感想
本書の内容に触れていること自分語りが多くてもいいよって方向き


さかのぼると昨年くらいろふまお塾の企画で言い放った「火炉冬扇」どういう人なんだろうというひょんな印象から始まった。
23年2月、神奈川へ一人で一泊旅行に行き駅広告を撮り、6月はリアルソロイベント開催を動画で見届け
9月、剣持刀也自身が著する本が発売されて手に取るまで、とても密度ある月日をもらっていると思う。
普段は寝るのが当たり前の電車の移動時間のうちに読み終えていた。


教典は教典でもエッセイということで幕開けのような語り口からは想像もつかない
蓋を開けてみれば配信を文面で観ているような感覚に陥って時折顔をつねり笑いを堪える羽目になった。
剣持刀也のエンターテインメントのお客さんになっているということかもしれない。
配信上で執筆は携帯端末からフリック入力していたと話していたことを記憶しているけれども、見慣れた配信告知の文面まで本書で読むとは思わなくて感嘆符の羅列をふわふわと目で追っていること自体、配信を観ている錯覚をしているようで愉快だった。
これからもアーカイブ動画に加えて虚空教典もいつでも読み返せる娯楽として重宝することになるなあと思った。

書いた内容について剣持が「全然燃えるかもしんない」と配信で言っていたこともこの事かなあと思い出したり。
自分は期限を守れない、後回し癖があるので「逃避のエンジン」について刺さるものがあり、
剣持の別の対象に意識を向けるエネルギーを知識として自身の肉付けに昇華させていける建設的な部分を垣間見ると
自分の場合は逃げるエネルギーは大方絵を描く趣味に向かうことなのでぼんやりと感心してしまう。
配信やアーカイブで舌を回して話し続けるところをみて抱く感想と変わらないけれど。
比較してもしようがない、なり変わることもない「僕にはなれません」とも綴られる。視聴者のお悩みを捌くように、純粋な心には真摯に応えるときもある「剣持が斬る」は剣持刀也という強固なアイデンティティを垣間見ることが出来る。
背中押してあげる蹴ってあげるくらいのノリだとしても、いちファンの背骨の一部となり生けし源に成り変わる。画面外の感情や実像を見せることをしない、エンターテインメントの舞台に立つ人間の説得力を感じられている。同時に、日々配信やコンテンツをみているうちにエンタメの隙のなさゆえの、誰にでもある何気ない生を感じその部分だけを切り取り、見ているときの自分に恥ずかしさを覚えた。19年、Vtuber界に冷めたことがある理由とされる彼の危惧に触れるまたは消耗させる行為だったのでは、と粛々としながら章を読み終えた。趣味に引退は無いと書かれていたことが一番に安心感を得られたと思う。

もっと個人的な感想になると、世界が広がるの早いなあと思った。実際自分のように世界が広がる感覚が大人になってからという人も少なくないと思う。
周囲の人に恵まれる由縁には当時の友達とやりとりを言葉に冷やりとした感情まで細かく覚えていることが、今なおマシュマロについて無数にして無(本書はより丁寧に言い表していたかも)と言いつつそんな世界を愛し、投げられたマシュマロの海に自ら好んで飛び込んでいくようなところに繋がっているなあ、とも思えてくる。
セカイ再信仰特区を選んで歌ったこと、改めて剣持刀也という人間の含蓄を感じざるをえないものになった。

父親との対談とても面白かった。親子の会話だなあと思えば、同僚にツッコミを入れるような漫才をみせられているような気持ちにもなり。無いかもしれないけどラジオのゲスト的な形でも出演してほしいなと思う。