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【イベントレポ】韓国の詩人と考える文学の世界<前編>

11月21日、福岡市博多区のJR博多シティで、「韓国の詩人と考える文学の世界 オ・ウン+キム・ソヨン+辻野裕紀」(クオン、九州大学韓国研究センター共催、韓国文学翻訳院後援)が開かれました。リズミカルな言葉遊びで詩の可能性を切り拓く詩人オ・ウンさんと、個人の生と社会を透徹した視線で見つめる詩人キム・ソヨンさん。九州大学の辻野裕紀准教授を司会に、韓国の現代詩の最前線から「詩とは何か」という根源的な問いまで幅広いお話で盛り上がりました。
ここにそのトークのダイジェスト版をお届けします。

ー辻野裕紀(以下 辻野)お二人とも詩人ですが、世代も性別も作風も違います。お互いどんな存在ですか。

オ・ウン(以下 オ):韓国の詩の世界でとても頼もしい方で散文もとてもお上手です。詩人は自分の作品だけに注力して書いていると思われがちですが、他の人の作品を読み、見えない刺激を受けるんです。その刺激を一番くれる方だと言えます。

キム・ソヨン(以下 キム):オ・ウンさんは韓国の詩の領域を広げた方です。オ・ウンさんの詩を読むと、タンクを持ち上げるヘリコプターを思い起こします。すべての重力を軽くするような。

オ・ウンさん(左)、キム・ソヨンさん(右)

―辻野:韓国では詩がよく読まれ、詩人への社会的なリスペクトもあります。日本では一般に詩は「国語の教科書の世界」であり、特に「現代詩は難解でハードルが高い」という印象を持っている人が多い。もしかすると韓国文学ブームは日本語圏における詩へのイメージを変えるきっかけになるかもしれないと私は思っていて、韓国の詩の邦訳がさらに増えることを期待しています。お二人は、どういうきっかけで詩を書くようになったのですか。

:今回、仁川空港から日本に来る時に出会った韓国の読者の方が会場にいらっしゃるんです。お二人に聞いてみましょう。韓国で詩人は尊敬されていますか?

読者さん:私はとても尊敬していますが、社会的に見たら良く思われていない面もあるかも。でも、一般的に詩人と言ったら「おお、詩を書いているんですか」という感じですね。

:何でそう聞いたかというと、「韓国で詩が読まれる」と言ってもものすごく読者が多いというわけではないんです。芸能人のファンほどの規模ではなく、1万、2万、多くても5万人くらいの読者。日本と比べて多いだけで、韓国の詩人の大部分は、まだ詩を書いているんですか? 読むの?という声もあるのも事実です。

キム:それでも、マニアというべき人たちがいる。本や詩集を愛し、詩集を買ったり、詩人になろうとしたりする人たちがいて、それは韓国らしいことだと思う。「みんなが好きでみんなが尊敬して……」というより、「自分が好きな人が好き」と志向する人たちがいるんです。

:先ほどの質問に戻ると、私が初めて詩を書いたのは浪人時代の自習室でした。すごく静かで頁をめくる音やシャープペンの音も聞こえるくらいの場所。でも僕は注意散漫で、じっと座っているのがものすごく悔しかった。「友達は大学生活を楽しんでいるのに、自分はあと一年勉強するなんて」と。でもそういう感情を悔しい、きつい、悲しい、世の中が恨めしいとかいう言葉で表現したくなかった。その感情の根源を探して、自分のスタイルを探しはじめたのが詩の出発点でした。どれだけ苦しく、心痛むのかを自分なりに表現していたらそれが文章になり、1、2行と書いていったのが始まりでした。
 そして、2002年ワールドカップの年に大学に入学し社会学を専攻しました。その翌日に受賞の知らせを受け取りました。知らないうちに詩の新人賞に兄が応募をしていたんです。
 当時は詩人になった喜びより大学生になったことが嬉しくて、2年くらいは詩を書きませんでした。デビューは2002年ですが、2004年の秋に、詩を書いてほしいと依頼を受けました。詩とは何か、どう書くのかも全く分かりませんでした。そうして自習室で書いていたように、感情を日常の言葉とは違ったかたちで表現する、散文形態で書き始めました。詩を書きあげた時、「この仕事を長くしなければ」と直感的に思いました。飽きっぽい自分が長くできるだろう唯一のことだ、と。

キム:1987年6月に6月民主抗争という大規模なデモがありました。「1987~ある闘いの真実~」という映画もあって、日本で紹介されましたよね。当時私は大学2年で国文学科の学生でした。学生はみんな通りに出て民主化運動をしていた頃です。でも民主化を追求する学生の中でも民主的でなかったり、権力を掌握したり、権力を得ようとする人たちがいて、私は深く失望をしました。そしてある日、すくっと立ち上がって家に帰ってしまったんです。バスで1時間くらいの道を歩いて7時間くらいかけて家に帰りながら、ふと「詩人にならなければ」と思いました。「詩人になったら権力と無関係に生きることができ、競争をせずに生きられる」という純真な気持ちで詩を書き始めました。

―辻野:〔会場に向かって〕お二人の詩を読んだことがありますか。オ・ウンさんの詩の特徴は「言葉遊びが多い」。言葉遊びの多さはユーモアとも言えるし、音声中心主義とも言える。「音と意味の間でのためらい」というポール・ヴァレリーの言をふと想起しました。こういう技法は「舌の快楽」をもたらす仕掛けであって、黙読しているだけではもったいない。声に出して読みたくなる。日本文学の場合は「掛詞」のように、同音異義性を利用したレトリックが古くからあるのに対し、韓国文学にはそうした修辞があまりないとも言われますが、韓国語にも同音異義語(同形異語)自体は非常に多い。それに関連して80年代に朝鮮文学者の長璋吉先生が書かれた「人間がひしがたになる時」という面白いエッセイもあります。それゆえに韓国語は機械翻訳が難しい言語とも言われてきた。韓国語の同音異義性を修辞的に使うのは、言ってみれば翻訳者泣かせ。どうしても註が必要になったり、説明的、冗長的になってきます。原書と訳書では印象が違うことも多く、これは「詩は果たして翻訳可能か」という根源的な問題にも繋がるものです。作家の中には最初から翻訳を前提に書く人もいますし、90年代以来の「韓国の世界化」という文脈の中で、書き手は翻訳されることを意識せざるを得ない場合が多いのではないかと想像します。しかし、翻訳はある種の切開でもあって、それはオ・ウンさんのようなタイプの作風の真面目しんめんもくを損傷させることにもなりうる。翻訳について考えるところはありますか。

オ・ウン著『僕には名前があった』(吉川凪訳)

:翻訳版の詩集の印象がどう違うか、おうかがいしたいですね。

辻野:「印象」の問題なので、ひとことで言語化できる質問ではありませんが、オ・ウンさんの詩の場合は、韓国語で読んだ方がよく分かるし、すっと頭に入ってくる。分かりやすい例を挙げれば、例えば、「보다」という動詞を「用を足す」「見る」などと訳し分けることで、同音異義性が見えなくなってしまう。当たり前ですが、これはもうどうしようもない問題です。

オ:私は翻訳を前提として詩を書いてはいません。でも翻訳の出版を契機にこういうイベントに参加できました。キム・ソヨンさんとベルリンにも行きました。そこでも「言葉遊びを翻訳するのはかなり難しい」と言われた。私は単語を一種のおもちゃやブロックと考えていて、ブロックで建物を作ったり、人に服を着せたりするのと同じ。「こう組み立てたら家が完成する」というような決まった規格に沿って思考して、行動に移し、結果を得るというのは面白くなかった。それで単語で遊び始めたんです。「この単語にはこの単語」というのではなく、「この単語と単語が出会えば新しい感じが出る」という風に。そして「文章の緊張を和らげることもできるのでは」などとも思いました。言葉遊びは日常生活で使う対話の手法でもある。しようとしなくても、しているような。言葉遊びは私にとって影みたいに体から離れないもので、指紋みたいに簡単に消えないもの。さきほど「作家の中には最初から翻訳を前提に書く人もいる」とのお話がありましたが、私はそうではありません。「韓国語の日常生活で使う言葉が、この文章に入ったら、新しい生命を帯びる感じがする」とか、「発音して読んでみたら言葉の味わいが生きるな……」という風に詩を書きはじめました。壮大な思いで書き始めたのでも、世界的な文学賞をめざして翻訳を念頭に書いたのでもない。日本で詩集が翻訳されたり、ある翻訳賞の授賞式でドイツに行ってみたりして、「翻訳は単純に現地語に直訳するのではない」と思いました。ある表現について、現地の事情に合わせユーモアが重要ならユーモアを生かし、意味が重要なら意味に焦点を合わせて、翻訳をするのが翻訳ではないか、と考えるようになりました。ですので、私の言葉遊びが翻訳上の困難になるかもしれませんが、一方で「この制約が一種の可能性になり、第二の創作になりうる自由が担保されている」と思うようになりました。

―辻野:「第二の創作」ということで韓国学徒が真っ先に想起するのは、金素雲訳の『朝鮮詩集』。これは翻訳的創作、いわゆる「ポイエーシス」になっていますが、そうしたことも連想しつつ、オ・ウンさんの詩にはいろいろと考えさせられます。

 キム・ソヨンさんの作品は、書評などで「悲しみ」という言葉とともに語られることが多い。それは個人的な悲しみでもありつつ、社会的、政治的な抑圧がもたらす悲しみでもあります。文学が個人の娯楽に矮小化されず、社会や歴史などのより大きな物語に接続されているというのは、1960年の四月革命以降のアンガージュマン文学の伝統でもある。日本では特にキム芝河ジハという詩人がよく知られていますが、韓国には文学へのそうした構えの潮流がありますよね。言論統制が最も厳しかった1980年代が「詩の時代」と呼ばれているのは示唆的で、労働詩や農民詩なども含めてさまざまな詩があり、今日本でも話題になっているいわゆるフェミニズム小説や「セウォル号以降文学」などによって、その異議申し立ての文学的系譜は受け継がれているとも言える。キム・ソヨンさんの『数学者の朝』の中にも、済州島のカンジョン村(※注:海軍基地建設工事反対闘争があった村)の話などが出てくる。しかし一方で、10年ほど前の新聞記事を読むと、キム・ソヨンさんはもともとは耽美的な詩を書いていたが、2009年の龍山惨事を契機に、社会の現実を描くようになったとある。そうした文学観の転換について詳しく話していただければ。

キム・ソヨン著『数学者の朝』(姜信子訳)

キム:記事はそう要約しているようですが、そうとは思いません。私は政治に参与する詩を一つのジャンルに区分する考えには居心地の悪さを感じます。私たちは、ある程度の差はあれ、日常生活の中で政治的な抑圧について物を申すこともあります。詩人としてそうした現象がいかに個人の肌感覚としてあるかを表現したいと思っています。ニュースで見たり、現場で哀悼したり、ニュースに触れることで、個人の中に亀裂が入る。その亀裂が入る瞬間こそが自体が社会的だと思います。私が詩を書く目的は、至る所にそうした亀裂を入れたり、信じきっている何かに小さなヒビを無数に走らせることだと思っています。

イベントレポ <後編>に続く

PROFILE

オ・ウン
1982年韓国全羅北道井邑生まれ、2002年詩壇デビュー。詩集に『ホテルタッセルの豚たち』『私たちは雰囲気を愛してる』『有から有』『左手は心が痛い』、青少年詩集に『心の仕事』、散文集に『君と僕と黄色』『なぐさめ』など。邦訳に『僕には名前があった』(吉川凪訳、クオン)がある。朴寅煥文学賞、具常詩文学賞、現代詩作品賞、大山文学賞などを受賞。

キム・ソヨン
詩人。露雀洪思容文学賞、現代文学賞、李陸史詩文学賞、現代詩作品賞を受賞。詩集『極まる』『光たちの疲れが夜を引き寄せる』『涙という骨』、エッセイ集『心の辞典』など多数発表。
邦訳に第八回日本翻訳大賞受賞作品『詩人キム・ソヨン 一文字の辞典』(姜信子監訳、一文字辞典翻訳委員会訳)『数学者の朝』(姜信子訳、以上クオン)、『奥歯を噛みしめる 詩がうまれるとき』(姜信子監訳、奥歯翻訳委員会訳 かたばみ書房)がある。

辻野裕紀(つじの・ゆうき)
九州大学大学院言語文化研究院准教授、同大学大学院地球社会統合科学府准教授、同大学韓国研究センター副センター長。著書に『形と形が出合うとき:現代韓国語の形態音韻論的研究』、共編著書に『日韓の交流と共生:多様性の過去・現在・未来』(いずれも九州大学出版会)、『あいだからせかいをみる』(生活綴方出版部)がある。現在、朝日出版社「あさひてらす」で「母語でないことばで書く人びと」、白水社「webふらんす」で「歴史言語学が解き明かす韓国語の謎」を連載中。

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