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『韓国の今を映す、12人の輝く瞬間』ためし読み(2)


どうしてそこに行ったのかって? 三人の子どもの父親だからです/キム・ヘヨン


私はダイバーである前に国民です。国民だから駆けつけたわけで、私の職業、私の技術がその現場で役立つ状況だったから行っただけで、(私は)愛国者でも英雄でもないんです……公務員の偉い方たちにお尋ねします。私たちはあの時のことをしっかり覚えています。忘れることができず身体に刻み込まれているのに、社会のリーダーである公務員の皆さんはどうして知らないとか、記憶がないとか……。

(ダイバー、キム・グァンホン氏の証言「四・一六セウォル号惨事特別調査委員会一次聴聞会」、二〇一五年十二月十六日)

 助けてくれと窓を叩く高校生たちを抱いたままセウォル号が転覆した時、この社会の底にあった腐敗と無能の恥部も露わになった。船に乗っていた三百四人のうち、ただの一人も救うことができなかった「史上最大の救助作戦」は、「史上最大の裏切りの舞台」となって幕を下ろした。その中で、遺体だけでも引き揚げることができたのは、間違いなく民間ダイバーたちの功績だった。事故発生から七月十日の政府による一方的な捜索中断通知を受け取るまで、犠牲者二百九十二人の遺体を捜して引き揚げたのは、海洋警察でも海軍でもない、二十五人の民間ダイバーだった。
「ダイバーには日当百万ウォン[約十万円]が支給されたうえで、遺体一体につき五百万ウォンのインセンティブが発生する」というミン・ギョンウク青
瓦台大統領府スポークスマンの発言が報道された時も、ダイバーたちは酸素供給の命綱を頼りに、水深四十メートルの海中に沈む孤独な遺体を捜して、黒い海に飛び込んでいた。インターネットも新聞も放送も届かないバージ船で、カップ麵を食べながら、うずくまって仮眠を取りながら、生徒たちを捜しに深海に下りていった。日に四、五回、あきらかに潜水の基本ルールを超える回数だった。冷たい水の中で恐怖に震えて重なり合う遺体を、一人ひとり丁寧に胸に抱いて上がってくる時、彼らもまた生と死の境を行き来した。
 あれから二年経った二〇一六年六月十七日、「セウォル号のヒーロー」と呼ばれたダイバー、キム・グァンホンが亡くなった状態で家族に発見された。京畿道高陽市の自宅兼フラワーショップで、まだ小学生だった三人の子どもたちが学校に行くために、母親と一緒に家を出ようとしたその時だった。父親は揺すっても起きなかった。健康で愚直な性格だった彼は、三十八歳の妻と十一歳(ラウン)、九歳(ダウン)、七歳(ヒョ)の三人の子どもを残したまま、心臓麻痺でこの世を去った。テーブルの上には前日の夜、彼が子どもたちのために買ってきたチョコレートが三つ残されていた。子どもたちは父親の死をどう思っているのだろう。勇敢で誇らしい仕事をした父親が彭木港の沖合から戻ってきて以来、しだいに廃人のようになっていった理由を、この身勝手で稚拙な世の中に対しての憤りと失望を、それでも最後まで失うことのなかった人間への期待と希望を、子どもたちは理解することができるだろうか。
 キム・グァンホンの妻、キム・ヘヨンに会うのは勇気がいることだった。でも、彼をモデルにしたキム・タクファンの小説『噓だ』(ブックスフィア、二〇一六年、未邦訳)が出版され、妻のフラワーショップの商品券と本をセットにしたパッケージ商品が出たという話を聞いて意を決した。誰かのブログに、妻のフラワーショップ「花の海」(fbada.com)の名刺が載っていた。夫がこの世を去ってから、遺された家族がメディアに登場したことはなかった。インタビューを申し込むのが失礼にならないように、細心の注意を払いながら連絡をしてみた。彼女はためらいながらも、最後には了承してくれた。夫に代わって話したいことがあるようだった。新しく引っ越したという先を訪ねた。ソウル市恩平区葛峴洞にある、こぢんまりした低層マンションだった。
「こんなふうに太く短く生きたいと言っていました。これは俺のだからと、(花屋をオープンする時に)どこにも売るなと」
 それは高麗人参にも似ていたが、さらに太くてしっかりした根っこが土から突き出していた。夫が特に好きだったという「カリホー」の鉢を見ながらキム・ヘヨンは言った。子どもたちの遊び道具でいっぱいのベランダには、小さな植木鉢がぎっしり並んでいた。夫が愛してやまなかったという「白紫檀」や「マンセンカラマツ」など、あまり馴染じみのない野花の名前が書かれた植木鉢も、子どもたちが飛んだり跳ねたりして遊ぶトランポリンの横に置かれていた。

 インタビューに応じてくださって、ありがとうございます。これまでメディアは避けておられたと聞いたのですが……。お葬式の記事の写真も顔を隠していらっしゃいましたよね。
―今、上の子が思春期なんです。小学四年生の娘です。ものすごく敏感な年頃なので。インターネットにアップされるのを子どもたちも見てしまうので心配したんです。今はかなり落ち着いて、私のインタビューを、自分も見たいと言っていました。

 え、そうなんですか?
―将来の夢が記者に変わったんだそうです(笑)。社会部の記者になりたいって。

 奥の部屋には子どもたち三人の赤ちゃんの時の写真が並んで掛けてあった。夫は子どもをたくさんほしがった。二歳違いで三人産んでも、もっとほしいと言って妻にたしなめられた。三人の子どもたちと一緒に写った家族写真の中のキム・グァンホンは、がっしりと骨太な体格をしていて、彼が好きだと言った植物の根っこに似ていた。

 高陽市にお住まいかと思ったのですが、フラワーショップだけあちらにあるのですか?
―この家に引っ越して一ヶ月ぐらいです。前の家は野生の草花を育てるハウスの敷地内にあったのですが、夫があんなことになってしまって、そのまま暮らすのはちょっと無理でした。子どもたちが見てなかったら違っていたかもしれませんが、あの朝、父親が倒れたのを子どもたちも一緒に見てしまったので。女手一つで野花の世話をするのも大変だし。防犯上もよくないし……。

 お葬式を済ませてこちらに移られたんですね。
―はい。フラワーガーデンはたたんで、今はインターネットのショップだけしています。

 話をしている途中にも、時おり花輪を注文する電話がかかってきた。小さな子どもを置いて母親が外で働くのは難しいので、インターネットで花輪や花かごの注文を仲介する仕事をしているのだと言った。

 もともとフラワーガーデンは奥さんがやっていたのですか?
―二人で一緒にやっていました。舅が野生の草花の農園をしているんです。夫は子どもの頃から花をいじったり、盆栽をいじったりするのが好きで、早くに「蘭の資格」も取ったそうです。蘭を育てる専門家の資格です。私は野花については何も知らなくて、一から夫に教えてもらったんです。

 ではフラワーガーデンをやろうと言ったのもご主人なんですか?
―三人目の子が生まれて、舅に勧められたんです。もう子どもが三人もいるのだから、海に行って危ない仕事はしないほうがいいと。

 それでダイバーの仕事は辞めて、フラワーガーデンだけやろうと?
―それは違います。彼が海を捨てられるはずがない(笑)。どうせ冬場は海の仕事もないから、休みの間に自分が好きな花とか盆栽を育てようと思ったみたいです。

 妻は海に対する夫の情熱を止めることはできなかった。初めて彼に会ったのも、スキューバダイビングの教室だった。キム・ヘヨンは屋内プールでの講習を終えたばかりの初級の生徒で、夫はすでに十年のキャリアを持つエキスパートだった。海が好きで一緒に行くようになり、彼の損得にこだわらない純粋さに惹かれた。二〇〇五年、出会ってからちょうど三年という日に二人は結婚した。キム・ヘヨンは二十六歳、キム・グァンホンは三十二歳だった。
 クレジットカード会社に勤務していた夫が、職業潜水士の仕事をすると言った時も、キム・ヘヨンは反対しなかった。レジャースポーツのダイバーではなく、海の中で溶接や橋脚の作業をする潜水士の仕事はきついだろうが、経験豊富なダイバーなら危険を避けるのは慣れたものだし、夫の腕は信頼できると思っていた。夫は十年間、職業潜水士の仕事をしながら、潜水病で苦労したことは一度もなかった。セウォル号の遺体収容作業に参加するまでは、そうだった。

 ダイバーとしてのキャリアは長いほうだったんですよね?
―二十年ぐらいになります。職業潜水士だけでも十年ですから。それ以前のも合わせれば……。

 職業潜水士は一般のダイバーとどう違うのですか?
―レジャースポーツとしてダイビングをする皆さんは、潜って魚の写真を撮ったり目で見たりするので、目の前が濁っていて見えないようなところには入りません。全く知らないならともかく、水の怖さを知っている人なら、それがどれほど危険なのかわかると思います。それに加えて職業潜水士は、水中で溶接作業をしたり、配管を設置したり、水中橋脚のコアな部分の作業をするので、はるかに高い熟練度が求められます。

 そのぐらいのキャリアだと、一ヶ月の収入はどのくらいなんですか?
―毎月同じではありません。日当制で、普通は一日百万ウォンぐらいです。一日に一時間だけ潜ってきても、基本は五十万ウォンです。大きな作業になると一ヶ月単位で契約をするんですが、そうやって仕事をしたら、その後に何ヶ月かは、身体を回復させるための休息期間が必要になります。

 セウォル号の救助現場では、どんなふうに民間ダイバーの皆さんに日当が支給されたのですか?
―日当をもらおうと思ってやったのではないんです。最初からボランティアとして行ったので、契約書を書いたり、日当を決めたりはしていません。おそらくうちの夫なども、契約書なしでやった初めての仕事だったと思います。ところが五月にイ・グァンウク潜水士の死亡事故が起きてから、あわてて契約書を書かせたようです。

 では、どうして「日当百万ウォン、遺体一体あたりいくら……」という話が出たんでしょう?
―あれは青瓦台のスポークスマンから先に出てきたんです。夫たち民間ダイバーがいたバージ船の上はインターネットがちゃんとつながらないので、本人たちはそんな話が出ていることも知らなかった。もともと遺体を引き揚げるのにお金をもらうとか、そういうことではなかったんですよ。

夫を止められなかった理由

 セウォル号の捜索現場には、どうして行かれたんですか?
―ちょうどその頃に済州島だったか、大きな工事の契約が決まっていたんです。ずっと前から力を入れてきた長期のプロジェクトで、金額が大きいだけでなく、その仕事をすれば次の仕事にもつながる、だからとても大きな契約だと言っていました。その仕事が数日後に迫っていたのに……。

 そこに行かずにセウォル号のほうに行ったんですね?
―ずっと電話がかかってきていました。職業潜水士はチームを組んで仕事をします。そもそも数が多くないから、誰かの知り合いの知り合いというふうに、つながっているんです。先に行っていた知り合いのダイバーから連絡がありました。私はもちろん行くなと止めたんです。「そこには五百人以上の人がいるっていうのに、どうしてあなたが行かなきゃいけないの?」って。そうしたら「五百人いたって実際に潜れる人間は十人もいないと思うよ」と言うんです。海洋警察だって無理だろうって。

 それで行くのを許したんですか?
―何日かソワソワして、何をしていても上の空というか。心ここにあらずといったふうで、仕事も手につかないようでした。ちょうど四月でしたから、フラワーガーデンは忙しいさなかだったのですが、気持ちはもう飛んでしまっているから、ここにいても仕方ないなと思って、「それほど行きたいなら行ってもいい」と言ったのです。

 喜んでいました?
―そう言ったとたんに、その日のうちにもう行ってしまいました(笑)

 大きな契約を投げ捨てて、生業を犠牲にしてまでセウォル号に駆けつけた理由は何なのでしょう?
―子どもが三人ですからね。

 え?
―私たちも三人の子どもの親ですから。私が最初に夫を止めたのも、子どもが三人もいるのだから危ないことはしてほしくなかった。でも親としてのつらい気持ちは、私たちもセウォル号の遺族も同じなんですよ。最初は子どものために止めたのですが、結局は子どものために行けと言ったんです。

※続きは本でご覧ください


プロフィール

著者:イ・ジンスン
財団法人ワグル理事長。
1982年にソウル大学社会学科入学。1985年に女子として初の総学生会長に選ばれる。20代は学生運動と労働運動の日々を過ごし、30代になってから放送作家として〈MBCドキュメントスペシャル〉〈やっと語ることができる〉などの番組を担当した。
40歳で米国のラトガーズ大学に留学。「インターネットをベースにした市民運動研究」で博士号を取得後、オールド・ドミニオン大学助教授に就任し、市民ジャーナリズムについて講義をした。
2013年に帰国して希望製作所副所長に。
2015年8月から現職。市民参与政治と青年活動家養成を目的とした活動を展開している。

訳者:伊東順子
ライター、編集・翻訳業。愛知県生まれ。1990年に渡韓。ソウルで企画・翻訳オフィスを運営。
2017年に同人雑誌『中くらいの友だち 韓くに手帖』(皓星社)を創刊。近著に『韓国 現地からの報告 セウォル号事件から文在寅政権まで』(ちくま新書)、『韓国カルチャー 隣人の素顔と現在』『続・韓国カルチャー 描かれた「歴史」と社会の変化』
(共に集英社新書)、訳書に『搾取都市、ソウル韓国最底辺住宅街の人びと』(筑摩書房)などがある。

BOOK INFORMATION

『韓国の今を映す、12人の輝く瞬間』
イ・ジンスン著、伊東順子訳
2,200円+税

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