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リバイバルはサバイバル

最近,時事ネタにめっきり疎くなった。というのもニュースなどの情報をほとんど見なくなってしまったからだ。仕事でたくさんの人と関わることが少なくなったのでコミュニケーションのツールとしてニュースの情報を仕入れておく必要も特になくなった。もっと言うと時事ニュースと言うのは実は普段の生活においてはあまり必要ないものではないかとも思いはじめている。その時その時の情報に一喜一憂し振り回されることや情報自体が一時的には盛り上がりはするけれども盛り上がるのは一瞬の話で結局,右から左に受け流されるかたちで忘れ去られていく...そういったバカらしさを感じている。社会問題として長い目で考えられている情報であればまだしも,有名人や知識人がその場その場で時事ネタに対して反応しコメントする。そういった人たちが反射的に対応している一時的なコメントが問題の解決に繋がるのだろうか?そんな様では情報が単に消費されて忘れ去られていくだけな気がしてならない。果たしてこういったものに何か意味はあるのだろうか?と思ってしまう。もちろん意味がないことを敢えて娯楽として楽しむことはできると思うんだけれども,それこそ問題がちゃんと問題視されない状況をつくっているのではないだろうか?前回,問題を問題としないことがよいという風には言ったけれども,問題を問題として捉えてる風というのとは全く状況が違う。

そんな状況に飽き飽きしている最近のぼくのマイブームはというと"人々の行動で世の中を読む"と言うことだ。それはどういったことかと言うと,ぼくの生活の中に存在するちょっと遠い人,例えば道で通りすがりの人やスーパーにいった時に買い物をしている人,ふらっと立ち寄ったコンビニにいる定員さんなんかがそうなんだけれども,そういった人たちの行動や言動を観察する,ということだ。これが結構面白い。車を運転していて事故が多いなという日は街行く人の機嫌が全体的にピリピリしていて悪かったりする。全ての人が同じではないにしろ,そういった空気感がある。「そんなの偶然だよ」と言われてしまえばそれまでなのかもしれない。しかし情報を敢えて遮断して世の中の空気感みたいなものを肌で感じる作業は,何かいろいろなものがつながっているようにも感じることができて意外と面白かったりする。そういったことをしていると生活している中で聴こえてくる音楽だったり人のファッションが気になってくる。ということで今回の後半は音楽やファッションのリバイバルについてちょっとだけ書こうと思う。

音楽やファッションなどは様々な年代のリバイバルをしている。2000年代までは大体20年前くらいのものが必ずといっていいほどリバイバルしてきた。1990年代なら70年代,2000年代なら80年代という風に。その20年前がリバイバルされるには理由があると思う。これはぼくの予測でしかないんだけれどもこういったことだ。音楽やファッションの業界で仕事に勢いが出はじめた30歳代の人たちは自らの青春時代をもう1度盛り上げたいという思いが出てくる。その30代の人たちが10代だった頃に熱くなっていた音楽やファッションをもう1度再燃させようとしてムーブメントを作り上げる。青春時代,いわゆる20年前を盛り上げようという思いが常に20年前がリバイバル,流行する傾向にあるのではないかと思っている。

しかしここ10〜15年くらいはYouTubeなどの誕生で状況が変わってきた。誰もが昔の映像作品を自由に見ることができる時代になった為に2010年代の流行りは単純に20年前のものが流行ると言う訳ではなくなった。普段ならば2020年の今現在2000年代が流行るところだけれども1960,70,80,90年代までごちゃ混ぜに流行ってしまっている。これはこれで時代の流れが変わり面白い化学反応が見れそうなのでよい光景ではあるのだけれども,それとは別に1つ気になる点がある。

ぼくの青春時代は90年代中期から00年代に当たるのだけれども2020年のいま,まさしくぼくの青春時代がリバイバルされはじめている。リバイバルされるのはよいことなんだけれども気になるのはリバイバルされているものだ。そのリバイバルされているものがとても薄っぺらかったりする。もし90年代が流行るならば,こういったものがリバイバルされるべきだ!とぼくが思うものが一切リバイバルされていない。例えばナイキのスニーカーだけれども,当時一般的に売れていたエアマックスなどそれなりにいろいろなものが復刻されているのだけれども,ぼくらの周りで名作と言われていたような1990年代のスニーカーは復刻されていなかったりする。むしろ当時流行っていたものでも「これダサいよね」と仲間の間で言われていたものがいま流行っていたりもするのだ。

このままでは当時ほんとうにかっこよかったものは今後も流行ることはなくこのまま忘れ去られ埋もれていくことになりそうだ。最近はそんな危機感からか青春時代に聴いたり着たりしていたものを掘りおこして購入している。そのほかに音楽や映画などはサブスプリクション(Netflix やAmazon praime,Apple music,Spotify など)に作品が入っていなければ,世の中に存在しなかったもののようにされてしまうのではないかと心配している。音楽はサブスクに入っていないレコードやカセットテープ,CDのみで発売されているよい音源もあったりするのでそういったものを探し出して購入する。そうやってほんとうによかったと思うものを残す為の作業をやりはじめた。あくまでもぼくの中だけの事かもしれないけれども,リバイバルというのはそういったよいものを生き残す,生き残りをかけたサバイバルでもあるのだ。リバイバルされなかったよいものを見つけ出し生き残す。後世に引き継ぐといっては極端な表現かもしれないけれども,誰かがその作業をやらないとぼくの好きだったものがこの世に存在しなかったことになってしまいそうでとても悲しい。しかし,そうやって過去にもかっこよかった音楽やファッションが忘れ去られて埋もれてしまっているというものが実はたくさんあるのではないだろうか?

当時売れていたものがリバイバルされ生き残り,売れなかったものはリバイバルされず生き残ることができない。そうやって淘汰されていくことは資本主義である以上はしょうがないことなのだろう。しかし自らのよいと思ったものはずっと残って欲しいし,人に伝えて共有をしたくなってしまう。そう思ってしまうのは人の性みたいなものだろう。

とはいえ,ここまで熱く語っているぼくのかっこいいと言っているものっていうのは,そんなにもかっこいいのか?とツッコミたくなる気持ちもわかる。こういうことはやっぱり直接会って「あーでもない,こうでもない」と話したいところだ。

(写真)梅雨の晴れ間に見えた虹,茅ヶ崎

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