問題は問題じゃない
この前ラジオを聴いていて,とても興味深い内容だったので内容の一部を抜粋して文字起こしさせてもらった。内容はJ-WAVEのラジオ番組JAM THE WORLDのコーナーUP CLOSE「月イチ宮台」より社会学者である宮台真司氏の発言だ。
ローザ・ルクセンブルクっていう有名な人がいてスパルタクスブントっていうのをつくったので,これ日本のブント,共産主義者同盟の元,雛形になったようなものです。あるいはジェルジュ・ルカーチとかですね,アントニオ・グラムシっていう皆欧州マルクス主義といって戦間期に似たような主張を展開した。それは資本主義が発達したマルクス理論からすると矛盾が集積しているはずの場所でなぜ革命が起こらないのか?という共通の問題意識を持ったんですね。彼らのほぼ共通する回答はこういうことです。誰もがですね,現在の社会秩序が金持ちにだけ貢献する特殊利害貢献的なものだということはよく知っていると。しかし他方でですね,曲がりなりにも自分は暮らせていてカツカツの生活でさえ,まあ生きていると。革命が起こって特殊利害貢献的な政権が倒れて特殊利害が失われたとしよう。しかし,それでもしかして自分が務めているこの会社,あるいは会社の資本が傾いてしまえば俺は?家族は?仲間は?一体どうなるんだという風に思う。つまり僕はこれを特殊利害共同利害矛盾問題という風に言ってます。社会が特殊利害に貢献しているようであってもですね,他方でも秩序が存在することで自分も貧者含めて誰もが食っている共同利害もあるんですよね。だからまた同じことが日本でも生じていると思います。確かにこの秩序は特殊利害貢献的だと。しかしこの秩序が激変した時に自分はー自分が務めている会社はーあるいは自分の生きてきた方針の延長線上で生きられるプラットフォームがどうなるのか分からない。そうすると,あの不満足であってもね,未来のその未規程性というか規程不可能な訳の分からなさを回避しようとするということを回避するということが起こりやすいということなんですよね。だからよく知られていることが起こっているだけなので何か極めて日本に特殊だということがない。ちなみに一つだけ付け加えるとなぜ若い人たちに安倍政権の支持率が高いのかというと,それはですね,年長者に比べると正規雇用,あるいはストック,貯金,株とかですね,持っていない人たちが多いので将来不安がやっぱり大きい訳ですよね。将来不安が大きい分,例えばもともと世代的なメンタリティーが違わないとしてもね,やっぱり共同利害を特殊利害よりも重視してこの秩序が変わっちゃ困るなという風に思いがちだっていうことが起こりがちというふうに推定しています。
簡単にいうと,いまは大変な世の中かもしれないけれども自分たちは曲がりなりにも生活していけている。金持ちだけが得をするシステムには気づいているけれども,それを壊すような革命が起きてしまうと社会のシステムが崩壊してしまい自分たちまでが生活していけなくなるかもしれない。それなら現状維持で波風立てないようにして大人しく暮らしている方が賢明ではないか!?ーとなるだろうか。今から80年から100年前にもなる戦間期にはこういった問題が哲学者や思想家のあいだで問われていたというのはちょっとした衝撃だった。
分かってはいるつもりだったけれども,このラジオを聴いて改めて「そうだよなー」と思ってしまった。やはりこういった考えでは社会は改善されていかない。色々な考え方はあると思うけれどもこういったタイプの人の割合が一番多いのではないかと思う。もちろんそういった考え方が悪いとは思わない。ぼくもどちらかというと若いころはそういった考え方をしていたので気持ちはわかる方だと思う。では社会の問題はどうなるのだろうか?今後どうやっていけばよいのだろうか?どうも社会がよい方向に向かっている感じがしない。果たして自分には何ができるのだろうか?10年近くこういったジレンマに襲われ続けている。
ふと思ったのだけれども,この悩み続けてきた思考を一時的に変えてみてはどうだろうか?何度もこういったことを思ったことはある。結局,自分自身が変わるしか解決方法はないのだ。しかし普段からSNSやニュースをみていると,はじめは気付かないのだけれども時間が経っていくに連れてあらゆる情報の判断に迫まられるような感じがしてくる。もっと言うと判断をしたくなってしまうのだ。そうやって情報の判断に迫られていると,ぼくのなかにある正義というものを取っ払うことができず白黒を付けたくなってしまうものだ。しかし最近はSNSやニュースをほとんどみていないので考え方を切り替えるチャンスかもしれない。ニュースなどの情報を仕入れていないので,その分判断する頭を使う必要がなくなる。それによってゆとりが生まれてくるのだ。
ということで今までずっと気になっていた考え方があったのだけれども,こういった考え方だ。問題を問題として捉えない,問題自体を俯瞰してみる,区別しないといった考え方だ。世の中で起こっている問題を問題として見ずに俯瞰してみる。俯瞰して判断するのではなくみているだけ,物事を区別しないといったものだ。十年以上前に聞いた話だけれども,モーガン・フリーマンは「人種差別をなくすには人種について言及しないことしかない」「黒人や白人というラベルが人種差別をなくすために障害になっている」「これからは君たちのことを白人とも呼ばないし,自分のことを黒人と呼ぶのもやめてくれと言わない」と言っていた。どのような物事に対しても”問題を問題として捉えない,俯瞰してみる,区別しない"という思考回路に切り替える。これはとても面白い考えではないだろうか?ということで仏様にでもなったつもりで,一週間あらゆる社会問題やニュースなどの出来事をぼくなりに受け入れてみて生活してみることにした。
一週間経ってみて「うーん」すごく清々しい気持ちになれる。ストレスもなく快適に過ごすことができた。しかし一週間ほど経ってみてちょっとした違和感を感じた。ぼく自身は心地よいかもしれないけれども,まわりの人はどうだろう?最近はたくさんの人と関わる仕事をやっていないのであらゆる物事を受け入れて生活するということがスムーズにできたのだけれども,たくさんの人と関わる仕事の場合,こういった考え方は支障をきたしてしまわないだろうか?人と関わることが多い生活の中ではこういった考え方は成り立つのだろうか?ぼくが物事を区別しなくてもまわりの人間は区別する,それでも人との共存は可能なのだろうか?と色々と考えて込んでまった。
そして挙句の果てではあるけれども,ぼくなりに方法を見つけた。それは考え方を一本化しないということだ。仏様の気持ちで生活している時もあれば,人と関わる時はそれとは違った普段の考え方をする。と状況にあわせて臨機応変に考え方を変えるということだ。これは仕事などで地位や立場を大事にしている人からすると"矛盾"につながることになることもあって,こういった考え方は難しいと思うのだけれども,ぼくの場合はたいして地位や立場もないので考え方をゆらぎとして捉え,環境や状況に合わせて考え方をコロコロ変えていけばいいんじゃないか?と思ったのだ。常に意見が変わることでまわりの人には信頼されにくいかもしれないけれども,ここ最近ではこの考え方がフィットすることは確かだ。ということでまた新たな考え方をベースに生活をスタートしてみようと思う。
(写真)イタリア・サルデーニャ島北部ラ・ペローザの砂浜スピアジャ・デッラ・ペロゼッタ
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