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社会と空気

この文章は2020年4月下旬に書いた。

テレビ,ネットニュース,SNSなどの情報は相変わらず正体の掴めないコロナウィルスの影響で,たくさんの人たちの心の中は不安な気持ちが続いている。実際に経済も落ち込んでいるし,仕事場や街の雰囲気,空気感までも殺伐としているように感じる。

とはいえスーパーや商店街はいつもより買い物客に溢れていて,その状況を人は「なんでこんなに人が集まってんだろう」とか思ったりするんだけど,買い出しに来ているぼくもその1人だったりする訳で...笑

4月の非常事態宣言が出た頃からzoomを使ってオンラインBARをはじめた。色々な人と話をしているとコロナ禍に対して少なからず不安はあるものの,ネットやメディアで報じられてるような大きな不安はみんなに感じられなかった。

むしろ社会がコロナウィルスに対する不安感に包まれている為,その不安な気持ち(ムード)に吸い寄せられるかのように自らの感情を不安な方に寄せている(られいてる)ように思えた。良くも悪くも,社会に順応しているとも捉えれるのだけれども...

もちろん不安が全くないとは言わないけれど,コロナ禍の不安に全く触れることなく「いま最高にハッピーだね」とか「子どもや家族パートナーといっしょにいれる時間が増えて最高に楽しい!」「おうち最高!イエーイ!」なんて言える空気感はほとんどないに等しい。(厳しい状況の中でも,私は楽しんでます的なものはあるけれども)そんなことを言うと「大変な人たちがいるのに自分だけが楽しんでる場合じゃないでしょ!」と“すごく不安な人たち“に怒られてしまうだろう。(←はたしてこう言った人たちもどれほどの不安があって発言しているのかは分からないのだけども)

ほとんどの人たちは(第一線で働いている人たち,特殊な例は除きます)それほど不安ではないけれども,コロナ禍にある不便さや不満,辛さをみつけてはネットやテレビで騒いでいるような”すごく不安な人たち“の意見に自ら身を寄せてみたり,ネットに書き込みしてるようにも思える。その身を寄せる行為,例えばコロナウィルスに対して不謹慎な人に注意したり,第一線で働く人の思いに寄り添うということは,その人の正しさ(正義)だったり,やさしさ(共感する力)と思われるかもしれないけれども”すごく不安な人たち“に身を寄せる行為は危険と隣合わせなんじゃないか?と感じている。

ネットやSNSとかにコロナウィルスの脅威を書き込んだり,政府を批判したり,不謹慎な人を注意するような”すごく不安な人たち“というのは、実はみんなが思っているほど不安ではなくて,自分の安心を獲得するための1つの表現なのではないか?と思ったりする。書き込み(表現)することでちょっとの時間その人は安心を獲得できるんじゃないか?

“すごく不安な人”は不安な情報を仕入れることで,自ら不安に思っていることが間違っていないということを納得させて安心する。不安な情報を取り入れる→安心する→不安な情報を取り入れる→安心する...と不安のループにはまってしまう。そうやって”すごく不安な人“は不安を表現したり情報を取り入れることで安心を獲得して自らのバランスを取っている。

もしそうだったとしたら,本当の意味で“すごく不安な人”っていうのは実はほとんど存在していなくて“架空のすごく不安な人”というのは社会(ネットやメディア,SNS)が作りあげた,ふわっとした実体のない空気感みたいなものなのではないか?その空気感みたいなものに人々が脅かされているだけなんじゃないか?!もしそんな”架空のすごく不安な人“というふわっとした空気感にみんなが身を寄せようものなら,とんでもない誤ちを起こしてしまう可能性があるんじゃないか!?(ちなみ事件はもう起きていたりするんだけれども)

例えば,コロナ禍が原因で凶悪犯罪事件が起きたり,感染者をバッシングしたり,そうやって人々の分断は始まっている。実体のないもの(空気感)に脅かされて社会は本当によい方向に向かうことができるのか?そんな実体のないものに不安になる必要はないのではないか!?

...というようなことが,最近頭の中をグルグルまわっている。ぼくは改めて深呼吸し,(三密は避けつつ)今日も近くの海で散歩するのだ。

※追記ー医療関係者やスーパーや配送など第一線で働く人たちの不安な気持ちはどうするんだ!っていう人がでてくると思うんだけども,やさしさ(共感する力)ついては次回書こうと思っている。


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