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ソーシャルキャピタル

久々にテレビを見る機会があった。基本的に家ではテレビを見ないのだけれども普段見ないものだから,たまにテレビを見ると食い入るように見てしまう。テレビを見た感想は「何じゃこりゃ?」だ。夕方のニュースを見ていたのだけれども「もはやネットの動画をまとめて出演者がそれについてコメントしているだけじゃん!」ってツッコミたくなった。ネットのネタをあまりにも多用しすぎている。これはネットのまとめサイトからちょこちょこと引っ張ってきたような内容のものばかりだ。普段テレビを見ないからこんなことになっているとは知らなかった。ちょうどこの週末に都知事選があるはずなんだけれども1ミリもそのことには触れていなかった。ニュース番組によって内容は異なると思うけれども,もはや笑うしかない。そういう文句を言いつつもテレビを一旦見はじめるとと釘付けになってしまうのもぼくであって,そうやって時間が過ぎていくのが嫌なのでテレビを見ないようにしている。

テレビの話はさておき,前回の話の途中に戻ることにする。現在ぼくはSNS断ちをしていて前回SNSの話をした。その続きでもともとSNSは何の目的で使われているか?というところなんだけれども,ぼく個人としてはSNSをニュースやカルチャーなど様々な情報収集として使っていた。みんながSNSを何の目的で使っているかを調べてみると,やはり多くの人は趣味やネタの情報収集に使っていて,あとは友達などの交友関係に使っているみたいだ。そのことを踏まえると無意識か意識してかは置いておいてソーシャルキャピタルを築くために使っている人も多いように思う。

ソーシャルキャピタルを簡単に説明すると人間関係のことで,もっと言うと信頼や規範,ネットワークなど社会や地域などのコミュニティにおける人々の相互関係や結びつきといった意味で使われている。

ソーシャルキャピタルとSNSの関係でいえばフェイスブックが強いと思うけれどもラインもソーシャルキャピタルを築くためには必要なものだろう。今となって多くの人々はソーシャルキャピタルを築く上でSNSは欠かせないものとなっている。特に子供の頃からネット環境がある比較的若い世代にとってはむしろSNSありきでソーシャルキャピタルが築かれているようにもみえる。これは時代の流れなので逆らいようがなく否定するつもりもないんだけれども,子供の頃からネット環境がない世代(30代オーバーで学生時代の頃からネットが普及した)にとってはSNSとソーシャルキャピタルの関係をややこしく考えていると思う。ぼくも"SNS断ち"をわざわざやっていることからもわかるようにその世代はネットと社会を区別して考えていている人が多いと思われる。

どこかしらのおじさんが「今どきの若いもんはー」と言うように,世代間を分断するような言葉がある。それは上記でも示したように生まれた時代が違えば環境も価値観も異なるのでしょうがないと思うのだけれども,その"時代や環境,価値観が異なる”とはどういったことを指すのだろうか?それにはぼくなりの答えが一つあって”昔に比べて便利になった”というところにあると思う。ぼくは若い人に対して「世の中が便利になったことで今では失ってしまったものがあるのだ!」という思いがあって,ぼくより上の世代の人にはぼくに対して「世の中が便利になったことで今では失ってしまったものがあるのだ!」と思うだろう。ぼくより下の世代がもっと下の世代に対してもそう思うだろう。果たして人はこの無限ループを一体何年続けているのだろう?このような無限ループは今すぐやめれるものであればやめたほうが良いと思うのだ。ぼくも人間だから若い世代に対して今どきの若いもんは…的なことを思ってしまうこともある。でもこんなことを繰り返していては何にもならない。かといって「世代が違うからしょうがないよね」で済まされるものでもなく,世代によって自分たちが大事だと思うことを世代を超えて伝えていくことが必要だ。

SNSでソーシャルキャピタルを築いていくことは良いことだと思う。しかしSNSに頼らずにソーシャルキャピタルを築いていくことも同時にやっていかなければならないのではないか?と思うのだ。この先何が起こるかわからなし,もしかしたらネットが使えない時代が来るかもしれない。若者はコミュニケーション能力が高いので若者にとってはいらない心配かもしれないけれどもそういったことを考えている。

世代間の分断を生むような考えや無関心でいるようではみんなが共存して生きていくのは難しい。例えば国民年金の問題でいうと将来資金が立ち行かなくなるという政府の政策や国民年金自体の仕組みの問題は棚に上げられ世代間の分断にすり替えられている。それはどういったことかというと,今のお年寄りは年金をたくさんもらっているけれども今の若者が年寄りになったときにはほとんど年金がもらえなくなるーと言われている。お年寄りの年金を若い人たちがいま払っているようなこともよく言われている。お年寄りを助けるというつもりで年金を払っている若者もいるだろうけれども「自分たちが歳をとったら年金もらえないのに何で自分たちがお年寄りのために払う必要があるんだ!」と不服に思う若者もいるだろう。それが世代間の分断を生んでしまうのだ。国民年金を将来払えなくなるのは国のお金のやりくりだったり仕組みの問題なのだけれども,いつもの間にか(ふわっとしたかたちで)世代間の問題にすり替えられている。今の段階では世代間の分断というのはそこまでないとは思うのだけれども,外からふわっとしたかたちで分断や対立といったものが作られたりすることもあるわけだ。こうやって世代間の分断を生んでしまうような問題にすり替えられてしまってそれに乗っかってしまっているようでは,お金のやりくりができなくて年金が払えなくなってしまいそうな国が国民年金の政策の問題から逃れてしまうことになり,国の思う壺になってしまうのだ。

そういった問題に惑わせられないためにも「世代を超えて団結が必要だ,ソーシャルキャピタルは大切なのだ!」と言いたいところなのだけれども,ぼくは簡単にそうは思わない。世代間で考えが違っても良いと思うし(そもそも違うものだし)世代世代で固まっているのも悪いことではないと思う。しかし様々な世代を越えてコミュニケーションを取ることは重要だと思っている。世代を越えて団結とか協力といった言葉にしてしまうと深くつながらなければならず重荷になるような気がしていて,コミュニケーションというちょっとした会話みたいなものでつながることが良いと思う。現在,お年寄りと若者が接するような機会は普段ほとんどない。世代間の分断を防ぐにはそういった会話やコミュニケーションがとれる場所や機会が必要になっているのではないだろうか?と思うのだ。

ソーシャルキャピタルは今の時代には大切なことだと思う。しかしぼくが思うほんとうのソーシャルキャピタルというのは,うまく生きていくために人間関係を頑張って築いていくことではなくて「目の前に困っている人がいれば助ける」という共通認識がみんなの中にできることではないかとおもうのだ。家族あるいは他人や誰に対してでも気軽に助けが求められる世の中になるのが理想的だ。そう考えると,ソーシャルキャピタルをわざわざ築いていくことが必要な世の中であってはならないのではないか?そういった人間関係を築くための駆け引きが昨今の人と人の間に歪(ひずみ)みたいなものを生んでいるのではないか?と思うのだ。自分が困っているときに家族(もしくは家族のような存在)もっというと,あかの他人でさえも自分が困っているときに自分のことを助けてくれるような世の中であれば,わざわざソーシャルキャピタルを築く必要はないのではないだろうか?と思うのだ。ソーシャルキャピタルというものは築いていくものではなく,もともとみんなに備わっているものではないか?もともとソーシャルキャピタルが備わっていることに気づくことだと思うのだ。

わざわざ人と信頼関係を築く必要がなく,もともとはどのような他人であっても"人と人はつながっている"という考え方,「目の前の困っている人を助ける」という共通認識を持つことは行き過ぎた理想郷なのだろうか?家族,友人だけではなく,あかの他人でさえつながっている。すべての人と人はつながっているという考え方。ソーシャルキャピタルは築いていくものではなく気づくことではないだろうか?とはいえ好きな人もいれば嫌いな人もいるのでそういった考えを持つことはなかなか難しいというのもわかる。そんな単純な考えでは解決できない問題もあることも想像がつく。しかしこの考えが共通認識としてベースにあれば,みんながちょっとは生きやすくなるのでは?と思うのだ。

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