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SNSディスタンス

ソーシャルディスタンスならぬSNSディスタンス。もう10年以上どっぷり浸かっているSNSと距離をとって生活しようと思い"SNS断ち"を試みることにしてみた。SNSを見る回数を少なくすることでも良いのだろうけれども,それではSNSを俯瞰して見ることができず,ぼくにとってSNSがどういう立ち位置あるのかがわからない。ではいっそのことSNSを見なければ良いんじゃないかということでぼくは"SNS断ち”という選択肢を選んだ。

ーSNS絶ちをして2週間ちょっとになる。正直すこぶる調子がよい。はじめは1週間SNSを見ない予定が「これはまだまだ続けられそう」ということで続けている。最近はコロナや政治の話題など興味あることが満載なんだけれども,そういった状況で敢えてSNSを絶ってみることにした。こういった時にやる方が効果が期待できると思ったからだ。普段スマホを何気なく触ってしまうので触らないことがちょっとした修行のようだったが4日目くらいから普通に暮らすことができた。ほんとうに自分が怖かったのはSNS断ち2日目の夕方くらいに無意識にスマホを持ちインスタグラムのアプリを立ち上げていたことだ。これは「ちょっとした病気だな」と思った。その後1週間くらいはSNSを見ないにしても何となくスマホを触ってしまう(SNS以外のアプリをいじっている)という行為が続いていたが10日目辺りからはスマホの必要性がほとんど感じられなくなり,家ではほとんどスマホを触らなくなった。10日目辺りからは情報収集としてラジオ(自分の興味のあるPodcastなど)を聴いている。これまで当たり前のようにSNSから政治からライフスタイル,ファッションまで色々と情報を集めてきたけれども,そこから情報を集めなくても生活には何の支障もなかった。SNS絶ちを試みた結果,はほとんど必要ではないのでは!?(※ちなみにテレビも絶っている)と思ったのだ。

確かにSNSは情報が早くおもしろいし,ぼくにとって有益な情報が盛りだくさんだ。しかしSNS絶ちをして気づいたのは(よく言われていることなのだけれども)ぼくにとっては情報過多だったということだ。情報に情報を塗り重ね1つの物事に対してじっくりと考える時間がなく情報を処理できていなかったのだ。もちろん場合によっては情報を広告として捉え(ファッションや音楽,カルチャーのような情報)考える必要のないものもたくさんある。しかし庶民のぼくにはそんなにたくさんの情報は必要はなく情報をただ消費しているだけで,もはや刺激にしかなっていないのであった。確かに情報を消費しているだけでもそれなりに知識にはなると思う。しかし一つの物事に対してそれなりに批判的な考えを持って立ち向かっていかないと(ちょっとおおげさかな笑)得た情報を右から左に流してしまうようなことだったり,受け売りにしかならず自分の考えを持つことがなくなってしまうのではないか?という危機感が出てきたのだ。そういった意味で"SNS断"ちは情報のインプットとアウトプットのバランスの大切さを気づかせてくれた。

あとSNS断ちで良かったことというと日々ニュースを見ないことが有意義な生活に繋がった。これはぼくが想像していたよりも有意義な時間を過ごすことができた。よっぽど大きなニュースがあれば誰かの口から耳にするだろうし,そもそも生活にニュースがあまり必要ないことに気づいたのは収穫だ。とは言っても全く要らない訳ではなく,例えば情報が欲しければ週1回1-2時間ほど時間をつくってまとめて集めればいいのだ(今はまだやっていないけれども)。果たして日々のニュースに一喜一憂することが自分の生活に良い影響を及ぼすのだろうか?特にネガティブなニュースを取り入れることって現実を見ることや危機感をしっかりと持つことに繋がるんだろうけれども,これってほんとうに普段の生活に必要なのだろうか?確かに何においても無関心はよくないとは思うけれども,かといって不安を持ちながら日々を過ごし続けるというのもどうだろう?生活の中でちょっとでもやりたい事に時間を費やしたりゆったりと過ごした方が有意義な時間を過ごせるのではないだろうか。ぼくはゆったりと過ごせる時間が増えて生活を有意義に感じることができた。

何かの記事で読んだのだけれども「ぼくたちの世代(現在40歳)とちょっと上の世代はネットと社会を分けて考える。ちょっと下や若い世代はネットも社会だと考える」といった内容の記事を読んで「へぇー」と思った。ぼくたちの世代では20歳前後にインターネットが普及したからインターネットのない時代も生きている。そういったことでネットと社会を分けて考える。若い世代は物心ついた時からインターネットがあるのでネットも社会と考えるーようなことが書かれていて「確かにそうなのかもな」と思った。多分テレビにも同じような社会との区別があって,ぼくよりも上の世代(ちょっと離れた)はテレビも社会だと考えていて、ぼくたちの世代から下の世代はテレビと社会を分けて考える(というかテレビをあまり見ないから影響されていない)。といったことが言えるのではないだろうか?ネットやテレビへの価値観は世代に寄って違い、もっというと個人によって捉え方が大きく違う。ということは当たり前のことなんだけれども人は社会に対してそれぞれの価値観を持っていて自分なりに信じる道や正しさだったり正義みたいなものがある。ぼくがSNS断ちをして良かったと思える根本にはもともとネットと社会を分けて考えるという世代特有の価値観があるからーということもあるのだろうな,と思った。

もはやネットで発信する個人の主張だったり考えだったりするものは諸刃の剣みたいなものになっているのではないか?と思う。この記事においてもSNS断ちに共感する人もいればこの記事を読んで「なんでSNS断ちする必要があるの?」と思う人もいるだろう。極端かもしれないけれどもネットやテレビで配信されているような一方的な情報は,一部の場合を除いて二元論的,例えば正義と悪,賛同するかしないか,自分にとって有益な情報か無益な情報か?みたいな捉え方しかできないのではないだろうか?と思ったりするのである。ちゃんとそういった情報に距離感を持って接することのできる人であれば問題はないと思う。そこまで極端に考える必要はないという人もいるだろうけれども,ぼくは基本的に一方的にしか受け取ることができないネットやテレビの情報はそういった二元論的なところに落とし込まれやすいような気がしてならない。特に情報過多だと情報を自分の中で処理すること,一つのことに対して深く考えることもできない。じゃあどうすれば良いの?っていう話になると思うんだけれども,例えば自ら参加もできるような能動的なメディアが良いんだと思う(発信側と受け取る側が相互関係でいれるもの)。あとは能動的な内容をまとめたもの(対照的な考えを同時に見れるもの)あとは極論になってしまうかもしれないけれども,自らがネットやメディアの情報に対して程よい距離感を保つことができるようになるということだ。すごく漠然としたもので説得力はないかもしれないけれども,そういったメディアが増えていき,バランスよく情報と付き合っていくことができれば良いのでは?と思うのだ。

あとSNS断ちで大きく懸念されるものといえばソーシャルキャピタルだ。急に横文字を出してしまったけれどもソーシャルキャピタルというのは簡単にいうと人間関係といった意味を持っていて,もうちょっというと社会や地域との結びつきといった意味がある。使いやすそうなので使わせてもらったんだけれども,ソーシャルキャピタルは蓄積されると生きやすさに繋がるとされている。果たしてそうだろうか?...長くなってしまうので次回はそのことについて話したいと思う。


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